目次
そもそもはじめに、人はなぜ、「絶望」をするのか?
それは、「中途半端な状態に耐えられないから」です。
これをさらにくわしく述べれば、「状況は最悪なのに、ヘンに『希望』があるため、中途半端な状態に耐えられず、本人の意思であえて『絶望』を選ぶ」という部分が大きいです。
これについては、下記ページでもくわしく述べましたので、参考にしていただきたいと思います。
絶望の正体とは、不安定な人生に耐えられなくなった者が陥る、「希望がない」という決めつけ
そもそも他人の「絶望」を客観的に見ると、いくらでも脱出法はあるようにも思える場合が、大半です。
よって、「絶望」とは多くの場合、「どっちつかずの状況に、決着をつけたい」という本人の弱さが引き起こす場合が大半なのです。
よってこのページでは、あなたが「絶望」に陥った場合の脱出法について、主に述べたいと思います。
これについては、苦しく不安定であっても、そうした時期だからこそ、得られるものもあります。
それは、「絶望のなかから、希望を見出す能力」です。
これさえ身につけられれば、どんな苦難にも耐えられるようになるといっても、過言でありません。
別の記事でも書きましたが、私は育ちに問題があったため、それが青年期になり、心身症として実体化しました。
そして、栄養療法、温熱療法、生活療法などにより、病気を30年にわたり回復させてきました。
「そんなに時間がかかったの?」と、あなたはおっしゃるかもしれません。
しかし現実には、私の病気は現代医学では原則として根治不可能なものであり、日常生活が不自由なく送れるようになっただけでも、奇跡的なのです。
数十年前ならばきっと、私は廃人、あるいは狂人として、ずっと施設に入れられていたと思います。
さて、そんな私は20年ほど前、そうした各種療養による、病気の好転反応が起こり、寝たきりになったことがありました。
このときは高熱が出て、何か月も動けなくなったのです。
もちろんそんな状態では、仕事もバイトもできないで、自殺願望が起こったものです。
しかし私はそのときすでに、「自分は、病気の寛解という過渡期にいる」という自覚が持てていました。
そのため、「好転反応さえ治まれば、自分はどんな仕事でもできる」と、希望が持てました。
その結果、私は思ったとおりに病状が安定し、ムリなく働けるバイトに就くことができたのです。
この経験から私が言いたいのは、「絶対的に希望がない状態」とは、ほとんどないということです。
もちろん、病気でどのような治療法も効かずに、苦しんで何十年と生きるしかないといった、本当に救いのない状況も存在します。
ですが大部分の絶望は、時間の経過と、あなたの心がけ、行動力次第で、なんとかなります。
「絶望とは、愚者の結論である」と、言われています。
あなたは、つらい絶望に陥ったとき、ぜひ以下のことをしてみてください。
自分自身を、他人、未来の自分、なんらかの実力をつけた自分と、さまざまな角度から客観的に観察するのです。
そうすれば、現在、自分を苦しめている絶望の正体、および、その絶望の乗り越え方等が見えてくるかもしれません。
それによりあなたは、一段、強くなれるし、またその実力はあなたを、必ず良い方向へと導いてくれます。
そして日が経てば、「そういえば自分は、過去にあれほど絶望していたこともあったっけ」と、懐かしく思うことえ、できる日が来ます。
またあるいは、あなたはご自分の悩みについて、専門家や信頼できる人にアドバイスを求める習慣をつけていれば、「絶望」を感じることが少なくなっていくはずです。
なぜならそのときのあなたは、「自分の境地には、必ず脱出口がある」と思えるようになっているからです。
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ところで私はこれまで、「いくら絶望しても、自殺してはいけない」ということを述べてきました。
ここではこの点を、少し補強したいと思います。
まず自殺とは、あなたが、あなた自身の命を絶つ行為です。
ところで時間とは、当然ですが、過去から現在、未来へと、一方向にしか進みません。
ですので、自殺とは「現在のあなたが、未来のあなたを殺す行為」となります。
つまりそれは、「弱く無力ないまのあなたが、強く、幸せになる未来のあなたの生命を奪うこと」なので、これは到底、許されることではありません。
「幸運の女神は、不幸の顔をしてやってくる」という言葉を、あなたはご存じでしょうか?
本当の幸せというものは、最初は厄介なもののように現れる、という意味です。
この点を、私がライターになったときの話から、ご説明します。
30代後半のころの私は、心身症も一段落し、本格的に仕事を探さないといけない状態になりました。
そのとき、まず考えたのは、物書きになることでした。
理由は、闘病していたときに私は、膨大な種類の学問を勉強していました。
ですので、その知見や実力を活かすのには、とかくなにかを書くことしかないと思ったからです。
ところが私が書きたかったことは、歴史や哲学等の分野でした。
ですが、出版社が主催するそうした部門のコンクーでは、ありませんでした。
かろうじて日本史のものならありましたが、私はおもに西洋史を勉強していたので、こちらは対象外となりました。
すると、いろいろ調べた結果、私の希望するジャンルで物書きになるには、以下の2つの方法しかないことが、わかったのです。
1.最初から出版社の社員か、そこの外部ライターとしてかで働き、出版のチャンスを待つ。
2.小説の新人賞に応募し、自分の作品のテーマを自分の専門分野に設定し、賞を受賞後、その方面での本を出版する。
そのときの私には、出版業界のプロに知り合いはいませんでしたので、私が取りえる選択肢は、2 しかありませんでした。
そうしたわけで私は、とかく小説を書いてみたのです。
ところがそれは、2作書いて、どちらも一次選考にも残りませんでした。
どうやら私には、小説家としての才能はないということを、つよく思い知らされたものです。
そうして途方にくれて、次の道をあわてて探していると、偶然、最高のライター教室を見つけ、早速、そこに入学しました。
そこは最初に私が直感したように、先生は厳しいが、一流のライターになる道を、的確に教えてくれました。
そこを卒業した後、私はいくつかの仕事を経験し、結果的にクオリティーマガジンの外部ライターになれたのです。
もし私が、小説の新人賞落選の時点ですべてをあきらめていたら、ライターへの道は拓けなかったはずです。
あなたももし現在、なにかに絶望しているのなら、現在はつらいでしょうが、それは後の希望につながるものととらえ、希望を見出してください。
私も現在、数年後から歴史や哲学にかんする書物を、世界中に売りまくろうという希望を抱いているのですから。
ここで最後に、私の人生を支え続けた小説、『モンテ・クリスト伯』の言葉から、あなたの絶望を払おうと思います。
まず『モンテ・クリスト伯』のストーリーは、以下です。
舞台は19世紀初頭、王政復古時のフランス、マルセイユ。ここに19歳の純朴な船乗り、エドモン・ダンテスがいた。
ダンテスは結婚と出世を前にして、幸福の絶頂にいた。
ところが、ダンテスの存在を快く思わない3人の男たちが、ダンテスに濡れ衣を着せ、官憲に通報した。
ダンテスは結婚式の当日に、逮捕されてしまう。
さらにダンテスを担当した検事は、偶然にもダンテスが、自分とナポレオンとのつながりを握っていることに気づき、あわててダンテスを政治犯の独房に送った。
事情もわからず独房に置かれたダンテスは荒れながら、絶望の日々を送った。
数年が経ったころ、ダンテスは脱獄を試みることにした。
そのとき独房の壁を掘っていると、偶然にもダンテス同様に脱獄を図ろうとしていた「ファリア司祭」という人物に出会った。
ファリア司祭は聡明な学者で、なぜダンテスが独房送りになったのか、即座に言い当てた。
それ以来、自分を陥れた者たちへの復讐に燃えたダンテスだったが、同時にファリア司祭から多くの学問や言語を学び始めた。
やがてダンテスが投獄されてから14年が経ち、ファリア司祭は亡くなった。
ファリア司祭は死に際に、「モンテ・クリスト島」に莫大な財宝が眠っていることを、ダンテスに知らせる。
ダンテスはとっさの機転で、ファリア司祭の死体と自分の身体を入れ替え、脱獄に成功。その後、モンテ・クリスト島で財宝を得たダンテスは、爵位を買って「モンテ・クリスト伯爵」となり、自分に無実の罪を着せた者たちへの復讐を開始する。
復讐自体はすべて成功し、自分の敵をみな破滅に追い込んだダンテスだったが、一つ問題が残った。
それは、自分が船乗りであったころの恩人の息子と、自分の宿敵の娘が恋愛関係にあったことだった。
そこでダンテスは一芝居を打ち、その若い男女、マクシミリヤンとヴァランティーヌを結びつけ、自分は愛する妻を得て、去っていく。
ダンテスとの別れを嘆くマクシミリヤンに、ヴァランティーヌはダンテスからあたえられた言葉を教える。
それは、以下のものだった。
「……この世には、幸福もあり不幸もあり、ただ在るものは、一つの状態と他の状態との比較にすぎないということなのです。きわめて大きな不幸を経験した者のみ、きわめて大きな幸福を感じることができるのです。……」。
「伯爵さまがおっしゃいましたわ。人間の智慧は、ただこの二つの言葉にふくまれている、と。『待て、しかして希望せよ!』」。(岩波文庫 アレクサンドル・デュマ著 山内義雄 訳)
引用が長くなってしまいました。(^^ゞ
つまり、死ぬほどの絶望を何年も味合わせられたダンテスにとっても、後から見たら、その絶望さえ、現在の自分をつくった試練にすぎない、ということです。
もし若いあなたが、絶望するほどの物事に苦しんでいるのなら、こう思ってください。
「その絶望は、きっと自分を強くする」と。
また、若いときに絶望するほどの不幸を経験しなかった者は、おそらく未来において、困ることになるでしょう。
これからの社会は、並の努力をしただけなら、とたんに貧困層に落とされるであろう、過酷なものになるはずだからです。
なので、絶望を知らない者は、自分を支えることも、どん底から這い上がることも、できなくなると、私は思います。
またそんな人が万が一、社会的地位や家族を得ても、それを守れず、破滅するかもしれません。
ですのでとかくあなたには、絶望を感じている現在の自分さえ、楽しむ余裕を持っていただきたいと思います。
つまり、「この絶望に耐えた後には、きっと自分には偉大なチカラが宿る」と、信じながら、絶望にいるご自身を客観視してほしいのです。
人間の感情に、無意味なもの、両義性のないものはありません。
ですからあなたは、その絶望の裏にある希望を、つねに見出すようにしていただきたいと思います。
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申し訳ありません。m(__)m
当初の予定では、前章で当ページは終わるはずでした。
しかし私はその後、「人にはなぜ、絶望という感情があるのか」ということを考えて、ある仮説が浮かんだので、述べます。
これは結論から述べると、「極度のうつ状態」だと思います。
まず人間は、唯一、本能から離脱した生物ですが、それでも「感情」は豊かに残っています。
そして、高度な感情を持つ動物のなかには、うつ状態になるものもいます。
これは、主人と引き離された犬や猫、あるいは動物園で見世物にされたサルなどにより、確認されています。
まず、うつ状態とは、悲しみやストレスが過剰なため、感情の主体である生物を無気力にさせ、疲れた脳や身体を休ませる作用ではないか、と私は思っています。
そうしたわけで、社会的存在である人間も、その社会のなかでつらいことが多すぎると、うつ状態になる。
そしてそのもっとも強烈なカタチが、「絶望」なのではないかと、私は思います。
ただ謎なのは、「絶望」は何度も述べたように、「本人を自殺に追い込む」ことまである点です。
生命体とは基本的に、危機にあっては、個体が生きていく上で重要なものほど、優先的に守る機能があります。
たとえば出血した動物は、たとえ四肢を失うことになっても、体幹部は生かそうとして、四肢への血流を止めることもあります。
そうした点から述べれば、人間も動物である以上、自己感情(=絶望)により、主体に自死を選ばせるというのは、本末転倒のように思います。
なぜなら当然ですが、生命体が生きるにあたり、もっとも重要なのは、「生命そのもの」だからです。
だから人が絶望し、自殺するというのは、たいへんに矛盾した現象のように思われるのです。
これについて、私なりの考えを述べます。
まず、自殺する生物とは、基本的に自然界では人間だけです。
これ以外には、たとえばネズミの集団自殺のような現象も、発見されています。
ところがこの場合ですと、それはあくまで増えすぎた種を守るための行動と、考えられます。
つまりネズミは数が多くなりすぎると、各個体が確保できるエサの量が激減する。
そうなると、飢え死にするネズミが多くなりすぎて、結果的に種の全滅につながる可能性がある。
それを避けるための、集団自殺ではないかと思われます。
ところが人間の場合、近代社会にあっては、自殺するのはまず、自己都合においてです。
たとえば、経済苦、人間関係の問題、健康問題等は、すべては個人の事情によるものです。
もちろん、特攻隊や古代宗教における犠牲のためといった死も、見受けられます。
ですがこれらは、「個を殺すことにより、共同体を活かす」ために存在します。
つまり、特攻隊員は日本国を守るために敵艦に特攻したし、宗教の生贄とされた人は、その教団や国家存続のため、あえて自分が犠牲になっています。
ですから、これらの事象はあくまで例外と見ていいでしょう。
ならば人間とは必ず、自己の個人的な事情で自殺する、ということになります。
元来は生命存続のために存在する感情が、「絶望」に支配されたとき、その主体を殺す。
これはいったい、どういうことでしょう?
私が思うに、人間とは「社会性と自然性」、両者を持ちながら、そのバランスが完全ではないのだと思います。
つまり、人間の感情はつらいことが多すぎると、主体の脳を休ませるため、脳をうつ状態にします。
しかし人間には本能を離れた思考力がありますから、そのつらい状態から逃げるための、自殺の手段をも考えられます。
その結果、人間は自らの意志で自殺する、唯一の動物になったのではと考えます。
上に挙げたのは、あくまで私の仮説です。
どうかあなたも、「ヒト(自然的存在)としてのあなた」と、「人間(社会的存在)としてのあなた」のバランスを取り、生きていってください。
またその観点から、絶望に陥った際には、「死は生命の最終地点、元来なら、自分から踏み込んではいけないところ」という認識で、耐えてもらいたいと思います。
こう言ってはなんですが、ほんの数十年ダラダラと生きていれば、放っておいてもあなたは死にます。
それがイヤなら、人生に目的意識を持って生きましょう。
死ぬときに、後悔を残さないために。
絶望とは、人間を殺す感情です。
そして「希望がなく、絶望しか見えない状況」とは、ある意味でもっとも安定している状態といえます。
なぜならそれは、人のココロを絶望から希望へと、行ったり来たりさせないからです。
そして絶望を確信した人間は、死を選びます。
ところがその状況での個人の認識は、非常に限定的で視野狭窄に陥っています。
それは、その人の置かれた苦しい状況が、彼に決着を迫るからです。
ですので客観的に見たら、絶望して、もう自殺以外、なんの解決策もないと思える人の環境には、じつはいくらでも逃げ道がある場合が、ほとんどです。
ただし、絶望に苦しんでいる人のなかでも、潜在的に絶望から解放されたくないと、考えている人もいます。
なぜなら絶望からの脱出法がわかってしまうと、それを実行しなくては、いけなくなるから。
そうして現実と格闘することを、本心では望んでない人も、確実に存在します。
ですが、絶望の解決策は、とかくそれを外化させることです。
具体的には、自分のココロの様子をノートに書きなぐったり、カウンセラー等に相談したりすることです。
また若いあなたがつらいのは、あなたが「青年期」という人生の過渡期にいるからです。
そんなときは、できるだけ自分の状況を客観視してください。
そして絶望にも意味があることを知れれば、あなたはきっと将来、いまより強く賢くなれるはずです。
なにかに絶望したときには、そのことを忘れないでください。
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