「(ひとり)ぼっち」とは、何か?「ぼっち」に耐える意味とは?それは自分だけの道を拓き、人生を展開させ、強くなること!

はじめに

 

 

 

 

現代では「『ぼっちであること」が、むかしよりは、社会的に認められるようになりました。

 

 

たとえばバブル期以前ですと、いつも一人でいる人は、「ネクラ」として、「集団に加われない、社会不適合者」のような、あつかいでした。

 

 

 

よって、みんなで群れることが当り前の時代には、みんな「ネクラ」と思われたくなくて、行きたくもないパーティーやスキーなどに、行ったりしていました。

 

 

 

ところが昨今では、一人ぼっちを指す「ぼっち」が市民権を得てきたようで、「ぼっち」であっても、とくにバカにはされません。

 

 

 

いや、むしろ「ぼっち」でいる人のほうが、現代ではひょっとして、多数派を占めるかもしれません。

 

 

 

とくに、若者のあいだでは。

 

 

 

いまや、大学の学食などでの「一人飯」は、当たり前のものになってきている感があります。

 

 

 

ですが、いくら「ぼっち」が社会的に認められようが、当の「ぼっち」の人たちは、それで完全に満足しているというわけでは、ありません。

 

 

 

「ぼっち」でいるということは、他者に気を遣わなくていいので、一面ではラクですが、一方で、とてつもない孤独を感じていたりもします

 

 

 

その点は、私が申し上げなくても、失礼ながら「あなた」が日頃から感じている想いだと、思います。

 

 

 

よってこのページでは、なぜあなたは「ぼっち=孤独」なのか、孤独とどう向き合えばいいのか、孤独であることで、何が得られるか、ということを述べていきます。

 

 

 

 

 

第一章 そもそも「孤独」とは、何か? それは、あらゆる苦しみ、悲しみの根源

 

 

 

 

 

でははじめに、「孤独」とは、どういう状態を指すのでしょうか?

 

 

 

これは、他者から孤立しており、物理的にも精神的にも、他人とつながれない様子をいいます。

 

 

 

ですから、たとえ人が身近にいても、他人と簡単に打ち解けられない、あなたのような不器用な人は、余計に孤独をつよく感じたりもします。

 

 

 

1992年に始まった、テレビアニメ「幽遊白書」のオープニング、「微笑みの爆弾」の歌詞は、そうした心情を秀逸に表現しています。

 

 

♪ 都会の人ごみ 肩がぶつかって ひとりぼっち

 

 

果てない草原 風がビュビュンと ひとりぼっち

 

 

どっちだろう 泣きたくなる場所は

 

 

2つ丸をつけて ちょっぴりオトナさ ♪

 

参照 http://j-lyric.net/artist/a00b712/l01298f.html

 

 

またとくに、「恋人がいない」等の物理的な人肌恋しいさびしさは、大人になるほど顕著になっていきます

 

 

 

そうして、一時的に孤独を癒そうとする大人が常連となるからこそ、風俗店があれだけ繁盛するのです。

 

 

 

また孤独とは基本的に、動物であれ人間であれ、もっともつらい状態を指します。

 

 

 

なぜなら、動物や人間のような生命体とは、基本的に同志とのつながり(=愛)がなければ、生きていけない存在だからです。

 

 

 

また基本的に、動物や人間が感じる、あらゆる苦しみや悲しみは、孤独に由来します

 

 

なにかを失った、大切な人が亡くなった、失恋、貧困、生活苦、人間関係のまずさ、容姿コンプレックス、仕事の苦しさ、病気、物理的苦痛、等々。

 

 

 

すべてが、そうです。

 

 

 

私がそう述べると、以下のような反応が返ってきそうです。

 

 

 

え、いくらなんでもそれは、拡大解釈のしすぎじゃない? 第一、生活苦や容姿コンプレックス、物理的苦痛って、何よ? 孤独と関係ないじゃん」。

 

 

 

ところがやはり、孤独とは、あらゆる苦しみ、悲しみの根源であり、またあらゆる苦しみ、悲しみは、孤独へとつながるのです。

 

 

 

その点を具体的に、次章で述べていきます。

 

 

 

 

 

第二章 すべての苦しみ、悲しみは、孤独に通じる

 

 

 

 

 

まず「なにかを失った」、「大切な人が亡くなった」、「失恋」という現実が引き起こす孤独感は、すぐに理解できるでしょう?

 

 

 

その喪失感たるや、どんなに泣いても足らず、胸が引き裂かれそうで、とてもじゃないが、じっとしていられないような心境になります。

 

 

 

また、幸せのなかにも、「ぼっち」の種はひそんでいます

 

 

 

たとえば、恋人といい状態でつき合えていたとしても、いろんな不安はあなたのココロに忍び寄ってきます。

 

 

 

相手の心変わりや、デートの終わり、なにかの事情で、もう彼女には会えなくなるのでは、という不安は、絶えずあなたにつきまといます。

 

 

 

その恋や恋人が素敵ならば、その見返りとしての孤独もまた、比例して大きくなっていきます。

 

 

 

次にここで、「貧困」というものを考えてみましょう。

 

 

 

これはもちろん、物質的、金銭的に困窮することを指します。

 

 

 

ですが「貧困」が人にもたらす感情は、「自分は、一般の人が享受している豊かささえ、得られない」と、いうものです。

 

 

 

人はどうしても、物事を相対的に考えてしまいます。

 

 

 

たとえ貧乏であって、なんとか食べていけるレベルの人でも、「食えるんだから、いいじゃん」と開き直れる人は、少数派です。

 

 

 

どうしても自分を他人とを比較して、落ち込んでしまう人が大半です。

 

 

 

「俺の同僚たちはみな、毎回、外食なのに、俺はいつもあり合わせのもので、弁当を自炊するしかない、不公平だ」という感じで。

 

 

 

そこから、「おカネがない」という現実以上に、「自分は、人並みの生活もできない」という疎外感のほうが苦しいという人は、多いです。

 

 

 

さらに、人間関係のうまくいかなさでも、若いうちはとくに、小さな問題でも、大きな孤独を感じるものです。

 

 

 

たとえば、特定の同僚や、会社のチームと相性が悪いというだけなのに、それを「自分は会社で、孤立している!」と、とらえてしまう人は多いでしょう。

 

 

 

たとえ、その人が勤める会社が、業務上においてそれほど人間関係が重要でないところであっても、そんな人は他者との関係を気にします。

 

 

 

そして、感じなくてもいい孤独を味わい、落ち込んだりします。

 

 

 

あるいは「自分は、社会不適合者だ」というように、わずかな孤独から拡大解釈するのも、若いうちには、よくあることです。

 

 

 

またちなみに、「友情」については、17世紀フランスの文学者、ラ・ロシュフーコーが以下のように述べています。

 

 

 

〇世間の人が友愛と呼んでいるものは、ただの社交、欲望の駆け引き、親切のとりかえっこに過ぎない。

 

 

 

実際に、意味もなくつるんでいる人の多くは、「この人たちと一緒にいたい」という思いより、「ぼっち」が怖いから、そうしているという場合がほとんどでしょう。

 

 

 

さらに「容姿コンプレックス」というのは、一見、個人的な問題に思えます。

 

 

 

しかしそれに苦しんでいる当人からすると、その自分の容姿以上に、その容姿が社会や集団のなかでもたらす結果に、苦しみます。

 

 

 

たとえば、他人から嫌われ、なめられ、仲間はずれにされる。

 

 

 

あるいは、異性にはまったく相手にされず、いつまでも恋人ができない、等々。

 

 

 

さらに人は、仕事の最中でも、それがイヤイヤやっているものならとくに、自分だけは、この作業にいつまでも埋没させられる。

 

 

 

といった疎外感に苦しめられ、それが「自分だけ」という思い込みにつながったりします。

 

 

 

くわえて病苦や物理的苦痛についても、人はそれがもたらす痛苦以上に、その苦しみを味わっているのが、自分だけという事実に、より苦しめられます

 

 

 

この点は、あなたも、自分が大病で寝込んだとき、スネに木材がぶつかって、激しい苦痛を感じているときなどを、思い出せばわかると思います。

 

 

 

そうした短期的な苦痛による孤独については、その苦痛をもたらしたものがなくなると、消え去るのが通常です。

 

 

 

あなたも、病気やケガで苦しんでいたときに感じていた孤独は、それが治れば、一緒にいなくなったことを、覚えていると思います。

 

 

 

また一時の失恋等、短期的なものについては、そのときには地獄の孤独を味あわされるものもあります。

 

 

 

ですが時間が経てば、もう覚えてもいないほど、克服できるものが大部分です。

 

第三章 「ぼっち感」の代替物には、どんなものがあるか

 

 

そのように、多くの「ぼっち感」は、その原因となっているものが消滅すると同時に、消えるのが通常です。

 

 

 

しかし、そうでない場合も、もちろんあります。

 

 

 

それは当然、孤独を呼ぶ原因が、なかなかに消えがたいものを持っている人たちの場合です。

 

 

 

例を挙げれば、精神病者、他人や社会にコンプレックスを持っている人、または社会的弱者などの「ぼっち感」は、基本的に消えません。

 

 

 

ですので、解消されない「ぼっち感」を抱えている人たちは、それを埋め合わせようと、さまざまな代替的行為を行います。

 

 

 

例を挙げれば、以下のようなことになります。

 

 

 

 

〇寂しい億万長者が、さらなる蓄財をする。

 

 

〇たがいにそれほど好き合っているわけでもない男女が、ずっとつき合い続ける。

 

 

〇男性の場合は風俗店に、女性の場合はホストクラブ等に通いつめる。

 

 

〇文化的活動や、芸術、学問等に没頭する。
近代の芸術家、哲学者は、生涯独身の者が多かった。
この場合は、文化活動そのものが、孤独の代替の場合としてもある。
また同時に当人の育ちから、人間同士のつき合いができないため、最初から文化活動に没頭する場合もある。
また、ニーチェのような女性嫌いの哲学者は、女性や恋愛にかんする数多くの皮肉な名言を残している。

 

 

〇オタク趣味に走る。

これは非常に、わかりやすい例。彼らのアイドルやアニメ、サブカルなどへの偏愛は、通常の異性愛が歪んだもの。
「異性を一人の人間として、受け入れられない」という彼らのココロの未熟さが、「異性への関心」を、オタク趣味に変換させる。

 

 

 

上記のように、「ぼっち感」はその代替として、人間に多くのことをさせています。

 

 

 

これは、社会や他人にとって、好ましいことも、そうでないことも、です。

 

 

 

ですが肯定的な部分に着目すれば、事業を回す、文化を残す等、多くの業績もあります。

 

 

よって、孤独の代替的行為すべてを否定すべきでは、ありません

 

 

 

 

第四章 つらい時期に、あえて自らを試練に置き、より強くなれる時期。それが青年期

 

 

ですが一般論としては、人は自らぼっちになる権利を保障されつつも、孤独から逃れる権利もあたえられるべきです。

 

 

 

なぜなら前述したように、基本的に、あらゆる不幸の根源は、孤独にあるからです。

 

 

 

近代社会では、「幸せは、自分でつかむもの」という前提があります。

 

 

 

ならば当然、万人には幸せになる機会があたえられなければ、いけません

 

 

 

とくに幼児や小さな子どもは、孤独であることは望ましくありません。

 

 

 

なぜなら彼らは、自分の生きる環境を選べないからです。

 

 

 

また、小さな子どもは自我が未熟なため、孤独の状態に置かれれば、人間関係が希薄になり、精神が発達しない場合もあります。

 

 

 

基本的に群れをなして生活するサル科である人間は、他者とのふれあいがなければ、ココロが育ちません。

 

 

 

ならば、ぼっち状態に置かれた子どもは、それが発達障害の原因ともなりかねません。

 

 

 

私はといえば、元来の内向的気質にくわえて、歪んだ家庭環境で孤独に育ったため、青年期以降は精神病を発病しました。

 

 

 

この点については、以下のページの第一章から第六章までを、参考にしてください。

 

 

自分嫌いを克服するカギは、他者や自分自身との関係のなかから、自分への信頼を獲得すること

 

 

1 第一章 私が、自分自身の倫理を自分で構築するようになった理由

 

 

 

「ぼっち」とはつまり、「愛から遠ざけられた状態」を指すのですから、原則として人は、ぼっちが前提の人生を送るべきでは、ありません

 

 

 

しかし例外的に、人がぼっちであることが望まれる時期が、存在します。

 

 

 

それが、青年期です。

 

 

 

この点は、ドイツの文豪、ゲーテも以下のように述べています。

 

 

〇孤独はよいものです。自分自身と平和のうちに生き、何か達成すべきしっかりしたことがあれば。

 

 

〇もちろん、世の中に出ながら、孤独で通そうというのは、常軌を逸した行為と思われる。

 

 

〇才能は孤独のうちに育ち、人格は社会の荒波の中で最適に形成される。

引用 『ゲーテ格言集』 新潮文庫

 

 

こうした状態が許されるのは、「人生」に対して本格的に出て行く前の、「青年期」にしか、ありません。

 

 

 

もしあなたが、会社で重要な役職に就いてしまったり、家庭を持ったりしてしまえば、望んでも孤独には、なれません。

 

 

 

またこれについて、もっと深く知りたければ、当サイトの以下のページを、参照にしてください。

 

 

 

「幸せ」の哲学的定義とは、「個人の社会的究極目標」。現代青年はいかにして、幸せを手に入れるか

 

 

他のページでも何回も述べましたが、青年期とは、少年期と壮年期の中間にあり、子どもでもあり、大人でもある年ごろです。

 

 

 

しかし人は青年期に、少年とは異なり、自分で生きる環境を選べます。

 

 

 

さらに、青年期において人は、肉体、精神、社会属性のすべてが中途半端な状態に置かれるので、どうしてもぼっちになります。

 

 

 

ですが、この時期にあえて自分を「ぼっち」という試練に置くことにより、人はより強くなることができるのです。

 

 

 

第五章 ドラマ「炎の犬」に見る、孤独により鍛えられる魂

 

 

 

 

 

この点を、1981年に放送されたドラマ、「炎の犬」から見てみましょう。

 

 

 

「炎の犬」は、犬が主人公である、成長ドラマです。

 

 

 

ストーリーは、以下です。

 

 

エンジニアである中江淳司が家長をつとめる中江家では、猟犬である2匹の犬を飼っていた。
母犬は優秀なラン、子犬はダメ犬のリュウ。
中江家の長男である憲司は、自分のダメなところと重なるリュウを愛していた。
ある日、ランとリュウは猟に連れていってもらうが、リュウはイノシシと猟銃の銃声に驚き、そのままいなくなってしまう。
憲司は必死でリュウを探すが、どうしても見つからない。
リュウもまた、自身の帰巣本能にしたがって中江家に帰ろうとするが、偶然にも野犬の群れに出会い、彼らと行動をともにする。
そのころちょうど中江家でも、淳司が事件に巻き込まれ、行方不明となってしまう。
リュウは野犬たちとさまざまな経験を積み、たくましく成長していき、やがて野犬たちのリーダーとなる。
そして誘拐され、かろうじて脱走した淳司は、偶然にも山中で成長したリュウに出会い、リュウに事件のカギとなるものを託し、息絶える。
紆余曲折を経て、事件は解決するが、リュウは自身が平和に過ごした中江家での生活ではなく、野犬のボスとしての生き方を選ぶ。
泣き叫ぶ憲司に背を向け、リュウは仲間がいる原野へと向かう。

 

 

この場合、たしかに主人公は犬のリュウですが、リュウの生き様を青年の人生に置き換えてみると、多くのものが見えてきます。

 

 

 

リュウは子犬でなくなる時期に、一人で生きていかねばならない状況に直面します。

 

 

 

そうして「ぼっち」に耐え、数々の試練を乗り越え、野犬のボスとして強くなっていきます。

 

 

 

そして大人になったリュウは、中江家や母犬ランとの生活よりはるかに過酷な、野犬のボスとしての生き方を選びます。

 

 

 

そのように人とは、ぼっちの青年期に耐えて強くなれれば、後は自由意志により、どのような生き方も可能になるのです。

 

 

 

さらにリュウが、野犬のボスとしての生き方を選んだのは、それがどんなに過酷であっても、同種の野犬たちとの同志愛があるからでしょう。

 

 

 

そのように青年期の孤独とは、人を極限まで強くする作用があるのです。

 

 

 

もしあなたがその状態に苦しんでいるのであれば、その時期にしかできないことを探し、可能ならば、さらに過酷な人生を生きてもらいたいと思います。

 

 

 

なぜならその経験はあなたを、どこまでも強くするだろうからです。

 

 

 

ただし、ムリをしすぎるのは、よくありません。

 

 

 

あなたが苦しみに耐えるのは、あなた自身を強くするためであり、決して破滅させるためでは、ありません。

 

 

 

そのことを念頭におき、「ぼっち」に鍛えられてください。

 

 

 

ところでちなみにですが、「炎の犬」の主題歌である「サンセット・メモリー」は、究極の名曲です。

 

 

 

ここには、「ぼっち」におかれた人間の心情が、最高の文学レベルで表現されています。

 

 

 

とくに、以下の部分に。

 

 

 

♪ ブロンズの 風の中 きらめくメモリー

しあわせを手放した 人は迷い子 ♪

 

 

 

「サンセット・メモリー」自体は、いくつかの動画サイトにアップされていますので、元来は違法ですが、よろしければ、ぜひ聴いてみてください。

 

 

 

もし現在のあなたが「ぼっち」を持て余しているのなら、この上なく共感できるものと、信じています。

 

 

 

孤独に耐えられないときには、救いの言葉や曲を聴く以上に、孤独を突きつめた作品を鑑賞するほうが、救いになるということが、往々にしてあります。

 

 

 

全体の歌詞は、下記に挙げておきます。

https://www.uta-net.com/song/5851/

 

 

 

 

 

第六章 青年期の「ぼっち」をバネにした、私や哲学者、ヘーゲルの場合

 

 

 

 

 

さて、ここでは私自身の青年期はどうだったかを、述べたいと思います。

 

 

 

これは、育ちの問題からくる心身にわたる歪みが、私の青年期初期に病気として爆発したため、とてつもない孤独を味あわされました。

 

 

 

これについてくわしく知りたいなら、下記ページの第一章、「私が、自分自身の倫理を自分で構築するようになった理由」を、お読みください。

 

自己嫌悪を克服するカギは、他者や自分自身との関係のなかから、自分への信頼を獲得すること

 

 

1 第一章 私が、自分自身の倫理を自分で構築するようになった理由

 

私が20歳くらいのころは、精神病のため、他者との共感が持てずにいました。

 

 

 

そのあまりの惨状から、私の精神科の先生には、以下のように言われました。

 

 

 

「君はまるで、『巨人の星』の主人公、星飛雄馬みたいだね。何重にも大リーグ養成ギブスを着せられてるみたいだ。でも、それが外されたときには、偉大なチカラを発揮できるかもしれないね」。

 

 

 

そこで私は、「ならば、この悲惨な環境を逆手に取り、自分を高めてやる!」と、決断しました。

 

 

 

とかく私はぼっちでしたが、それは逆にいうと、「だれにも邪魔されない」ということでもあります。

 

 

 

その環境にいて私は、学問や武道におおいに打ち込みました。

 

 

 

いつか自分を覆っている「ぼっち」という名の鎧が取れて、本格的に社会に出る日のために。

 

 

 

もちろん、私がそうした自己研鑽を始めた当初は、それが自分の未来に、具体的にどうつながるのか、まったくわかりませんでした。

 

 

 

当然に、そうして進んで行った先にあるゴールについても、まったく見えていませんでした。

 

 

 

ですがとかく、私には「やるしかなかった」のです。

 

 

 

そうしたことから私は、「最初の一歩」を踏み出しました。

 

 

 

そしてまわりも見えないままの暗闇にあって、数年後、自分が手探りに進んだ一歩一歩が「」になっていたことに、気づいたのです。

 

 

 

つまり、自分に一定の実力がつき、自分の人生の方向性が見えてきたということです。

 

 

 

そうした経緯で私はライターになれたし、かつ健康にも近づけ、いろんな可能性を帯びた現在の自分へとつながれたのです。

 

 

 

私がこの30年近くに行ってきたことは、ほぼすべて、自分が孤独の淵に落とされなければ、できなかったことばかりです。

 

 

 

またもちろん私は、通常でしたらそんなところに、自分の主体的な意志で飛び込もうとは、しなかったでしょう。

 

 

 

私などと並行して述べるのは恐れ多いですが、ここで私同様に、青年期の孤独により実力を培い、大成した大哲学者、ヘーゲルについても、述べます。

 

 

まずヘーゲルは、18世紀のドイツに生まれ、「近代哲学の大成者」と、呼ばれる人物です。

 

 

 

哲学史上での実力や重要性では、間違いなくトップクラスです。

 

 

 

彼に比肩できる哲学者といえば、2500年の哲学史上のなかでも、アリストテレスかカントだけです。

 

 

 

そのヘーゲルですが、彼が若いときに哲学者を志したとき、大学での指導教官から、「哲学の才能、なし」の烙印を押されています。

 

 

 

ですがヘーゲルは大学卒業後、貴族の子弟の家庭教師を勤めながら、コツコツと地道な研鑽を積んでいきます。

 

 

 

一方で世間では、ヘーゲルより5歳年下の、神学校時代の友人である哲学者シェリングが、若いうちから華々しく活躍していました。

 

 

 

その陰でヘーゲルは、ナポレオン戦争のなかにあって大学講師などをしながら、自分の哲学体系を着実に構築していったのです。

 

 

 

そうしてヘーゲルが37歳のとき、ようやく彼の代表作ともいえる『精神現象学』の出版に至ったのです。

 

 

 

その後のヘーゲルは、ギムナジウムという学校の校長を勤めたりしながら、『エンチュクロペディー』、『大論理学』などを発行し、自分の足場を固めていきます。

 

 

 

そうしてヘーゲルが46歳のとき、念願だった大学教授の職にも就き、「第一級の哲学者」という評価も獲得したのです。

 

 

 

その後のヘーゲルは、61歳でコレラにより急死するまでに、哲学界の絶対的権威として、哲学界の頂点に君臨し続けたのでした。

 

 

 

一方、若くから華やかに活躍していたヘーゲルのライバル、シェリングは、年ごとに格が落ちていきました。

 

 

 

現在から見ても、ヘーゲルは「近代哲学の大成者」ですが、シェリングは「カントからヘーゲルへの橋渡し」という程度にしか、評価されていません。

 

 

 

 

第七章 「なりたい自分になる」のなら、「ぼっち」からは逃げない

 

 

 

 

上のような内容を読んでも、現在、ぼっちにある若いあなたが、そこから安易に救済されることのみを願うのは、もちろん自由です

 

 

 

もしあなたがいまの孤独に耐えられずに、おかしくなってしまいそうであるならば、即席の優しさや友情等にふれると、いいでしょう。

 

 

 

たとえば、それほど親しくない人たちと、ずっと群れる、水商売の女性に優しくしてもらう、エンタメ・コンテンツに没頭する等です。

 

 

 

しかし当り前ですが、そうした行為は、あなたの「ぼっち」を根本から解決してくれるものでは、ありません。

 

 

 

それどころか、場合によっては、自分が将来、強くなるチャンス」を、自ら放棄するものになりことも、ありえます。

 

 

 

ですがそれらは、一時的にせよあなたを「ぼっち」から遠ざけ、あなたに自身を客観視させることもあるということは、否定しません

 

 

 

そのときのあなたにまだ、「自分を成長させたい」という意志があるのなら、あなたはそこから、「自分は今後、どうするべきか」と、考えればいいでしょう。

 

 

 

またもし、その結果としてあなたが、「もうメンドーだから、ごちゃごちゃしたことは、考えない。生きるように、生きるさ」と結論を下しても、仕方はありません。

 

 

 

そもそもが、「ぼっち」などというものには、大部分の人間が耐えられません。

 

 

 

たとえば私は、学生時代やフリーター時代に、おカネに困っているわけではないのに、バイトのシフトをフルに入れている人たちを多く見てきました。

 

 

 

当時の私は、「なんであの人たちは、若いときの自分の時間をすべて売るなんて、もったいないことをするんだろう?」と、不思議に思っていました。

 

 

 

ところが、いまになると、彼らの気持ちもわかります。

 

 

 

とかく彼らは、自分の孤独と直面するのが、怖かったのです。

 

 

 

ぼっちの時間は人に、「お前の人生は、本当にこれでいいのか?」、「お前は、どういう未来を生きるのだ?」と、真剣に問うてきます。

 

 

 

その圧力に耐えられず、彼らはバイトに没頭していたのです。

 

 

 

たとえバイトであろうが、それは仕事であることには、違いありません。

 

 

 

ならば少なくとも後になって、「自分は若いころ、たくさん働いてきた」と、自分自身に対して言い訳できます。

 

 

 

たとえ未来の彼らが、自分の望んだものでなくても、そうして自分自身に対するアリバイには、なりえるのです。

 

 

 

そうしたわけですので、もしあなたが将来、「自分で納得できる自分」になりたいのなら、孤独から安易に逃れるのは、止めたほうがいいです。

 

 

 

そうではなく、孤独をむしろ「自分の再創造」のチャンスと見て、ご自分の人生と自分自身を、俯瞰して見るということを、オススメします。

 

 

 

というのも、何度も述べるように人生においては、基本的にそんな時期を持てるのは、青年期しかないのですから。

 

 

 

ですから、若いあなたは、いまの「ぼっち」を「自分を見つめ直すため、神さまがくれたプレゼント」と考える道もあるということです。

 

 

 

もちろん、そのぼっちが精神の病気をもたらすほど強烈なら、お医者さんやカウンセラーに相談ということでも、問題ありません。

 

 

 

むしろあなたは、その孤独な時期に、「自分とは何か、自分はどう生きるべきか」ということを、信頼できる多くの人に尋ねるのは、好ましいことです

 

 

 

ただ、その「ぼっち」と向き合わず、ゲームやネットなどで自分をごまかす生き方は、止めたほうがいいということです。

 

 

 

きっと将来、あなたは後悔するでしょうから。

 

 

 

まとめ

 

 

人間のあらゆる不幸は、(ひとり 「ぼっち」)から生じます。

 

 

 

ですから一般論として、人はぼっちに陥ったら、そこから抜け出すべきです。

 

 

 

しかし青年期の孤独について述べれば、むしろ人はそのなかにいて、自分の人生をよく俯瞰したほうがいい場合もあります。

 

 

 

というのは青年期とは、少年期と壮年期のあいだに挟まれた、「過渡期の時期」でもあるからです。

 

 

 

この時期に自分のぼっちと向き合い、自分の未来のために自問自答しながら生きた人というのは、最終的に大人物になれる可能性を秘めています。

 

 

 

もしあなたが、どうしても自分の「ぼっち」をもてあまして苦しいのなら、そこから逃げてもかまいません。

 

 

 

ですが私は、多くの人生の先輩方にアドバイスを求めてでも、あなたは「ぼっち」から安易に逃げない道を勧めます。

 

 

 

というのも、そうした時期とは人生のなかで、人は「青年期」にしか、持てないからです。

 

 

 

青年期は「少年期」と「壮年期」の中間にあり、この時期に人は、自分の人生のグランドデッサンを描きます。

 

 

 

そのためには俗気から遠ざかり、一人で思索にふけ、悩みに苦悩する必要もあるのです。

 

 

 

あなたにはもちろん、青年期に「ぼっち」を受け入れるか、そうしないか、選択する自由はあります。

 

 

 

ですが、そのときどちらを選ぶかで、あなたの未来像は、大きく変わっていくでしょう。

 

 

 

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自己紹介 ほんわか

みなさん、はじめましして。(*^^*)

 

ほんわかと申します。

 

私は現在は、雑誌ライターさんなどやってます。

 

成長過程での歪みにより、発達障害やアトピーを、50年近く患い、30年以上かけてほぼ完全に克服しました。

 

またその間に、高名な心療内科の医師や整体師につき、その教えを完全に自分のものにしました。

 

くわえてその過程で、多くの学問、健康法、整体術などを習得し、自分と同じような立場の人、200人ほどの相談に乗ってきました。

 

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