はじめに
「好き」という言葉は、あまりに日常で使われすぎているため、その本来の意味をあらためて尋ねられると、なかなか答えられません。
ここであえてあなたにお訊きしますが、「好き」って、何ですか?
それはまず、ひとつの感情ですよね?
では一体、どんな感情ですか?
ほら、あなたは全然、答えられないでしょ?(*^^*)9m
ですが、人生を生きていくにあたり、「好きって、何?」がわからなければ、自分の判断に確信が持てません。
「牛丼が好き」、「ゲームが好き」、「音楽が好き」等、「好き」にもいろいろありますが、もっとも大切なのは、「だれのこと(人)が好き」という想いです。
同性、異性をふくめ、「だれのことが好きか」ということで、その人の人生は変わっていきます。
また、「その人が好き」にしても、「好き」の中身がよくわからなければ、その好きな人に対する対応もまた、わからなくなってきます。
ですのでこのページでは、おもに「人、とくに特定の異性が好き」というテーマから、「『好き』とは何か?」ということを、哲学的に探っていきたいと思います。
乞う ご期待!(`・ω・´)ゞ
目次
さて、「好き」とは何かですが、これはいきなり、解答から述べます。
それは、「感情レベルにおける、対象の肯定的判断」です。
これだけ言うと、あなたにはちょっと意味がわからないでしょう?
ですので、ここをくわしく説明していきます。
まずはじめに、私は「感情レベルにおける」と申しました。
ここから最初に、やや遠回りになりますが、「感情とは、何か」を、明らかにしていきたいと思います。
いまから2500年ほど前、古代ギリシアにソクラテスという哲学者がいました。
古代ギリシアとは、「哲学」を生んだ国で、哲学ができたばかりのころは、さまざまな事象が、哲学の対象になりました。
たとえば、「万物の根源は、火だ」、「いや、それは数だ」とか、「世界の真理は一つだ」、「いや、真理はそもそも、人間には理解できないものだ」とかです。
そうした数多くの哲学のテーマを、ある3つの概念にまとめたのが、ソクラテスという人物です。
ソクラテスは、<真・善・美>こそが、哲学が問題とすべき、もっとも重要な事柄だと主張しました。
そしてソクラテスの言葉は、2000年以上にわたり、西洋では大きな影響を持つようになったのです。
さて、そこでソクラテスが語った<真・善・美>ですが、これらは何を意味するのでしょう?
これは、簡単に言ってしまうと、こんな感じです。
〇真→理性や論理によって、把握される真理
〇善→「悟性」という、ほぼ「感情」、「常識」に近い認識能力によって、感得される真理
〇美→「感性」、「感覚」により把握される真理
私がこう言っても、ちょっとわかりづらいかもしれません。(^^ゞ
ですので、今度は少し、言い換えてみましょう。
まず、以下の点を押さえてください。
〇論理による説明が理解できるのは、人間のなかでも、賢者や哲学者だけである。
〇「常識」を基準に生きているのは、全生物のなかでも、人間だけである。
〇感性を持つ存在は、生物だけである。岩とか塩とかの無生物は、そもそも「感じる」ということもできない。
ここから、以下のようにいえます。
〇「真」とは、賢者、哲学者にとっての真理
〇「善」とは、一般的な人間にとっての真理
〇「美」とは、生物にとっての真理
さて、私はこの章のはじめに、「好き」とは「感情レベルにおける、対象の肯定的判断」を指すのだと、申しました。
つまり、「好き」とは「感情」によって判断されるということです。
そして前述したように、「感情」で行動するのは、一般的な人間です。
ただしもちろん、「感情」は人間の専売特許ではなく、ある程度、高等な動物でも持っています。
しかし、動物が行動の規範としているメインのものは、「本能」、「感覚」です。
決して「感情」のみにより、生きているわけではありません。
すると、喜怒哀楽という「感情」を主な行動指針として生活を営んでいるのは、一般的な人間だけです。
そこから、「好き」とは、「通常の人間が生きていくうえで、なにかの対象を判断する基準」ということになります。
さて、上記から理性、感情、感覚という各認識能力には、レベルがあるということがわかりました。
つまり、高いものから順に、
理性→感情→感覚
ということに、なります。
そして現在、私が問題としているのは、「好き」という気持ちを生み出す、「感情」です。
ならばまず、「感情」とは、生物のどの段階で発生したのでしょう?
おそらく、脳を持つ脊椎動物(背骨がある生物)からだと思います。
つまりは、魚類あたりからでしょう。
https://www.dplay.jp/article/0000004557
鳥類、哺乳類となれば、これはもう明白に、感情はあるでしょう。
というのは、彼らは「愛」を持つもの特有の、「じゃれ合う」、「甘える」という行動を見せるからです。
ただし、動物の段階ではやはり、メインの行動規範は、本能にあります。
なぜなら動物には「自由意志」がない以上、「本能」に従って生きるほか、ないからです。
そしてここで問題となるのが、「なぜ生物に、感情が発生したか」ということです。
その理由のすべてではないでしょうが、重要な要素として、以下の点が挙げられると思います。
「自分の敵と味方、自分にとって好ましいものとそうでないものを判別する」
まず感情がもたらす「好き」の気持ちを共有するもの同士は、一緒に行動したがる、交尾をしたがる等の行動を見せます。
これはつまり、「異性愛」の原型ともいえるものです。
さらに、たとえ動物であろうと、好きなものには自己犠牲のような行動を取る、ずっと一緒にいたがる等の様子を見せます。
また逆に、生物は「好き」の反対の「嫌い」という感情を持ってしまったものに対しては、どうするでしょう?
その対象に対し、合理的な理由もなく、嫌悪の感情を示したり、あるいは避けたりします。
これは人間の女性がよく言う、「あの人、なにが悪いってわけではないけど、生理的に受けつけないのよね」という反応の、原型ともいえるものでしょう。
くわえて、「好き」がさらに進化したものが、「愛」だと、私は思います。
というのは、「好き」という感情は、基本的に複数のもの、複数の存在に対し、働きます。
しかし「愛」とは、恋人同士はもちろん、家族、共同体、さらには国民同士をも団結させ、一つのものにする、広さと深さがあるからです。
ここを簡単に、例を挙げて説明します。
たとえば大人の場合、「好き」の範囲内でしたら、同性でも異性でも、だれを好きになっても許されます。
しかしたとえば、「恋人として愛している存在」が、2人も3人もいれば、その人は「身持ちが悪い」と思われ、社会的にはあまり尊敬されません。
また、「だれそれが好き」といえば、それは相手の人格を認めながらも、その人と自分とは、あくまで友人同士という関係を超えません。
しかし、「恋人を愛している」と言ってしまえば、彼と恋人とは、「カップルのなかの、片割れ同士」という見方をされます。
つまり人間同士でいえば、「好き」の範囲内であれば、だれともつながれ、たとえば「野球が好きな者同士」のように、その結びつきは緩やかです。
ところが、「愛している者同士」という関係になれば、これは「2人で1つ」の関係性と見られ、深いつながりを意味するということです。
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さて、そうして高度な認識能力と、豊かな感情を獲得した人間ですが、それが逆にアダとなり、自分の「好き」という感情を満たせない場合が出てきます。
というのは、人間は本能から離脱し、「理性」により共同体を維持する存在にまで、なったからです。
たとえば、シェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』のように、社会的事情により、愛し合う者同士が一緒になれないケースもあります。
さらに人間は、多くの豊かな感情を持ちすぎたため、自分の気持ちに素直になれない、ということも起こります。
たとえば、小学校の低学年児でさえ、仲の良い男子生徒と女子生徒を、からかったりもします。
それどころか場合によっては、いつも一緒にいる2人の同性の生徒さえ、冷やかしたりもします。
その理由は、嫉妬や、最近よくいわれる、相手より精神的に上に立とうとする「マウンティング」などによるものでしょう。
またさらには、中学生にもなれば、少年・少女はもれなく「第二次性徴期」が始まります。
具体的に述べれば、男子には精通が起こり、女子は初潮をむかえ、異性への関心が抑えられないくらい、強くなっていくということです。
つまりは、じょじょに理性や社会性が発達してくる時期に、生物としては根源的な、「生殖」に関わる機能が、本格的に露わになるのです。
そうなるともう、恥ずかしいやら気まずいやらで、異性とまともに会話もできなくなる少年・少女も出てきます。
またこの時期に、前述したように第二次性徴期が激しく現れるため、いわゆる「初恋」を経験する少年・少女は多いです。
ですがその大部分が、意中の相手に指一本、触れることなく関係も始まらないうちから終わります。
それはもちろん、それと同時期に発展した理性や社会性により、その感情を表出することが、おそろしく恥ずかしいものになるからです。
その理由は、何度も申しますがまさに、彼や彼女がまさに第二次性徴期を経験したことにあります。
第二次性徴期を経た肉体は、基本的に性行為、妊娠、出産が可能です。
つまりその気になれば、自分が生命を生み落とすことが、できるようになったということです。
そこからこの時期には、相手に対する気持ちが、「好き」から「愛」にまで発展したということができます。
しかしその反面、自分は精神も幼く、知恵もついておらず、社会のことも、まったくわからない。
つまりは、性行為が可能なだけで、それ以外はまったくの子どもであるということです。
そしてそんな自分にとっては、生命の親になるなど、あまりに重い。
こうした現実が、少年、少女に、異性から距離を置かせます。
そうして、いまではどうかわかりませんが、私が中学生だったころは、男女の生徒同士が気軽に話をするという雰囲気は、まったくありませんでした。
もちろんみんな、異性が嫌いなのではなく、相手があまりにまぶしく見え、どうしても態度までも、よそよそしくなってしまうのです。
ちなみに、私の場合もそうでした。
中学2年生のころ、私は学校の教室と塾で同級生だったある美少女が、熱烈に好きでした。
それはまさに、「恋」といって間違いないものでした。
ちなみにですが、「恋」とは、性欲を原動力とし、特定の異性に対して向かう「愛」を指します。
しかしまさに上記の理由から、私は彼女と言葉を交わすこともなく、中学卒業後に別れて以来、一度も会うことはありませんでした。
この気持ちは、1983年にリリースされ、いまだに聴き継がれている、村下孝蔵の名曲、「初恋」の歌詞、そのものでした。
♪名前さえ呼べなくて とらわれた心見つめていたよ♪
ちなみにこの曲はまさに、私がかなわぬ初恋に身を焦がしていた時期に、流行していたので、いまだにココロに残っています。
♪遠くで僕はいつでも 君を探してた
浅い夢だから 胸を離れない♪
https://reminder.top/657119791/
またこれも、人間の感性が豊かすぎ、その個々人の性格に差がありすぎるためでしょう。
人は、自分のココロの底というものを知られるのを、極度に恥ずかしがります。
これは、若い人ほど顕著です。
それにくわえ、この点は肉体的な面でもおなじです。
若い人ほど、自分の裸を見られるということを、たいへんに恥ずかしがります。
この点は、キリスト教等の教典、『旧約聖書』における、エデンの園での、アダムとイヴをめぐる「知恵の実」のエピソードからでも、わかります。
エデンの園に住んでいたアダムは、「知恵の実を食うな」という神の教えに背き、それを妻イヴとともに、口にしてしまいます。
するととたんに、2人には知恵がついたかわりに、自分たちが裸でいることが恥ずかしくなったのです。
そしてアダムとイヴは、神からエデンの園から、荒野へと追放されます。
ちなみにキリスト教やユダヤ教ではこれを「原罪」と呼び、労働をはじめとする苦痛を、人間が負わねばならなくなった原因と、とらえます。
ではなぜ、そういうことになるかというと、人間には「本音と建前」という性質があるからです。
人間は本能から離脱し、「理性」により、協働が可能となり、高度な文明を築き上げました。
ところがそれゆえ、「公の労働の場」において、個々人が「自分の動物性」を表すと、社会が成り立たなくなるのです。
たとえば、おなじ仕事場に、自分好みの女性がいたからと、彼女を襲ったりしていては、仕事になりません。
そこから人間には、「自分のなかの感情を満たす場」と、「理性的に仕事を行う職場」とが、求められるようになったのです。
これはまた、「ホームとアウェイ」、「本音と建前」とも、表現されますが。
ただし未開社会ほど、その区別は緩やかで、近代社会になるほど、厳密になるという事実はあります。
そうしたことから人間は、「自分の職務をまっとうする場」=「社会」で、自分の趣味を表すことが、はばかられるようになりました。
「そうしたことは、お前の家で、お前のカミさん相手にやれ」。
これが人間社会が、個人に求める最低限の常識です。
さらにこれこそが、人間が「自分の好き」を、簡単には表現できない理由でも、あります。
さて、ここで話題は、身近なものになっていきます。
これは平成の時代から崩れていきましたが、昭和時代の常識では、中高生の男女は交際しても、セックスはしないのが常識でした。
昭和時代においては、そのような保守的な若者が多かった反面、「なら、大学生になったら、セックスは解禁!」と、はじける者も、相当数いました。
こうした風潮は、1960年代あたりからの「フリーセックス運動」から始まり、80年代のバブル期で絶頂に達したように思われます。
そうした大学生たちの心理や価値観を表した小説として、1980年に発表された、田中康夫のデビュー作、『なんとなくクリスタル』が、あります。
ところが、平成の初期をピークに、若者たちの性に対する価値観は、どんどんと保守化していきます。
その原因は間違いなく、社会の貧困化にあります。
それにより、自由に使えるおカネが少なくなった若者たちは、異性への執着が薄くなっていきます。
さらには、ゲームやIT、アダルトソフト等の発展のため、若者たちは性欲解消だけなら、おカネもかけずに気軽にできることに気づきます。
その価値観のもとに育ったのが、令和の現在における「さとり世代」や、その下の世代の若者、つまり、「あなた」というわけです。
ちなみにですが、こうした現象は歴史上、文明が発達した地域では、必ずといっていいほど、起こります。
その理由は、一部の文明人にとっては、恋愛やセックスより楽しい娯楽がたくさんあるというのが第一。
次に、そうした地域では個人主義が進むため、一人の恋人などに束縛されるのを嫌う、というのもあります。
さらには、文明社会での生活が、人々の自然で本能的な欲望をも、ゆがめてしまう、ともいえるかもしれません。
たとえば、古代ギリシャにおいては、「恋」といえば、男性間のものを指すのが通常でした。
古代ギリシャ人にとっては、異性とのセックスは、子孫を残すため、仕方なく行うものでした。
さらにわが国でも、戦国時代から江戸時代にかけては、は男色(なんしょく)といって、侍同士が関係を持つのは、当たり前でした。
しかし、そのように時代が変わっても、恋する若者がゼロになったわけでは、ありません。
むしろ現代では、若い男はいわゆる「ヤリチン」の遊び人と、まったく異性に触れない「草食系、絶食系男子」とに二極化されたとも、いわれます。
そして、昭和時代であろうとも令和の現在であろうとも、変わらない事実があります。
それは、「社会人になったら、交際もセックスも、自己責任のもと、本人の自由」という常識です。
こうした現実から、人間の社会には、年齢に応じて以下のような、個人の「好き」を表すにあたっての違いがあるということです。
これは、図式化すれば、こうなります。
幼年期→「好き」を自由に表明できる。幼児や赤ん坊は、親に対してどれだけ愛情を求めても、許される
少年期→社会性や理性、および強すぎる性的衝動が現れるため、「好き」をなかなか自由には表現できなくなる。なおこの時期を境に、単なる「好き」を超えた「愛」を感じる者が増えてくる
青年期以降→自己責任において、「好き」、「愛」をどう表現しようが、本人の自由。まわりも、たとえ妬みの気持ちがあったとしても、他人の恋愛事情には、干渉しないのが、暗黙の了解。そして当人は、自分の「好き」を、自分の個人的な空間と時間で実現させる。
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さて、これまで私は、主に学生時代にある若者をめぐる、「好き」、「愛」の環境について述べてきました。
ところで、中高生、場合によっては大学生も、学校によっては男子校・女子高と男女別になっているのには、じつはそれなりの理由があるのです。
それは、「男の子は男らしく」、「女の子は女らしく」という、近代的価値観にもとづくものです。
まず少年には、早いうちに同世代の女子から切り離し、荒っぽい環境のなかで、「たくましく責任が取れる男性」に育てるという意義があります。
また少女には、同様に男子には会わせず、そのなかで「芯が強く、凛とした女性」にするという目的があります。
こうした価値観は、現代では現実的にはやや破綻しており、実際の教育現場でも、上記のような理念どおりには、いっていないようです。
つまり、男子はいわゆるオタク系が多いため、環境も厳しくなく、たくましい生徒も少数派だそうです。
一方の女子ですが、こちらも異性の目がないため、かえってだらしくなく、ズボラで身なりに無頓着な生徒が多いと聞きます。
しかし現実はともかく、これが理想どおりに運べば、そうして育てられた男女は、大人になってから、立派な恋愛ができることとなるはずです。
つまり、たがいに思いやり、たがいに成長し合える恋愛が可能なはずだ、ということです。
さて、今度はここで、あなたの場合を述べます。
あなたは間違いなく、少年期、青年期前期をうじうじと過ごしてきたため、いますぐ成熟した、大人の恋愛など、とてもじゃないが、できないでしょう。
失礼ながらあなたは、同年代の女性と比べても精神年齢が著しく低く、そもそも傷つきやすすぎるので、相手に近づくことも、できないと思います。
それでもあなたは、現状に不満があるからこそ、こんなサイトを見ているのですよね?
(*^^*)
そんなあなたを、私は悪く思いません。
なぜなら現在のあなたは、私があなたの年齢であったときよりも、よほどマシだからです。
さらに、あなたがたとえ現在では、恋愛のできない気質、体質であっても、あなたがそうなったのは、あなたのせいではありません。
あなたは、おおよそ「自分で自分を変えていく」という努力もできない幼いときに、あなたのご両親や環境により、そのように育てられただけです。
その意味で、あなたは「状況の被害者」ともいえます。
またそれでも、あなたには性欲もあり、たとえオタクグッズや AV ソフトを多く持っていたとしても、現状には不満があるのでしょう。
あるいは、現状のままで過ごしていった、10年後、20年後が、想像するだけでも恐ろしいということもあるでしょう。
そうしたことから、ここからはあなたが「好きな人」に、どのように接していけばいいかを、説いていきます。
まず「女性慣れする」ために、女性の多いところに身を置くというのは、いいアイデアでは、あります。
しかし実際に仕事をしていれば、そうしたことは、なかなかむずかしいのが現状です。
そこでまわりくどいことは止めて、いきなり女性とつき合うことを考えてみるといいでしょう。
基本的に、「男女がつき合う」というのには、2つのパターンがあります。
まずは、つき合う前から双方が、もしくはどちらかが相手のことが好きで、そこから交際へと発展するパターン。
もう一つが、最初は好き同士でもなかったが、寂しさや異性を必要とする事情から、じょじょにか、はじめからか、交際へと発展していくケース。
今回は、後者の方をご説明いたします。
まずいきなりですが、あなたはご自分とお似合いと思える程度の女性に、デートかお茶を申し込んでください。
急にそんなこと言われても、まわりに女性自体、いないよと、あなたはおっしゃるかもしれません。
ですがあなたが若ければ、出会いはいくらでもあります。
合コン、街コン、出会い系など、むしろありすぎるほどです。
またそうした出会いを、たとえば業者をつうじて探すにせよ、最近では信用できる業者とそうでないとここを見分ける方法は、出回っています。
たとえばふつうに web 検索から、業者や主催者のレビュー等を見るだけで、だいたいのことは、わかります。
そうして下調べをした上で、女性との出会いに踏み切りましょう。
またもちろんですが、あなたの職場に、すでに気になる相手がいる場合もあります。
そうした女性にアタックするのも、いいでしょう。
しかしご存じのように、職場恋愛はリスクが多いです。
デートに誘って断られたとき、気まずくなる、つき合えることとなっても、それは基本的に、結婚が前提となってしまう。
そのため、別れたくなっても、なかなかそうはできない、等です。
ですから、職場の女性にあたるときは、根回しはしておいたほうがいいです。
たとえばふだんから、事務的なことでもいいので、よく声をかけておく、あなたと彼女との接点を、意図的に多くつくっておく等です。
そうしておかなければ、もしほとんど口も利いたこともないのに、いきなりデートのお誘いや告白をしても、いい結果は望めないでしょうからです。
それどころか、そのことが他の同僚に知られたら、あなたはおそらく、社内での居心地が悪くなるはずです。
さて次に、あなたがよく利用するお店など、あなたの生活圏内に意中の女性がいたとします。
ここでも、攻略は同様です。
とかく彼女との接点を多くして、それから機を見て、デートなどにお誘いすればいいのです。
ですがここでも、彼女へのアプローチに失敗すると、もうその店には行きづらくなる等のリスクもあります。
さらに残念ですが、そんなに女性に対して器用にふるまえるあたなでは、ないでしょう。
だからこそ、最初は相手方にも異性と交際する意思のある女性と、つき合ったほうがいいのです。
またちなみにですが、なぜあなたは、好きな女性に対して、能動的にふるまえないのか?
それは、あなたの育ちに原因があります。
これは私もそうでしたが、幼少期から必要なものは、親やまわりの大人が勝手に用意してくれました。
ですのであなたは、「自分はなにが欲しい」ということが主張できないし、また、自分自身で何が、誰が好きかも、わからないということもあります。
さらに、私やあなたのように、まともな愛情を受けずに育った者は、プライドは高くても、自己肯定感は低いということは、現実としてあります。
ですからあなたは、傷つきやすすぎて、なかなか恋愛へと進めないのです。
だからあなたはたとえば、「相手にフラれた」とかではなく、「相手に声をかけられない」等の自分側の事情により、勝手に傷ついてしまうことも、あるでしょう。
さらに、いくら女性の権利が強くなった現代でも、恋愛において最初に声をかけるのは男性側で、女性側は誘いを待っているというスタイルは、変わりません。
ですのでたとえ、相手があなたに関心があっても、あなたはどうやって彼女にアプローチすればいいか、わからないとうこともあります。
この点、私から言えることは、とかく彼女との接触を増やすことです。
というのも、女性でも男性でも、会う頻度が多い人間には、好意を持ちやすいということがあるからです。
私はそういうとき、機を見て相手と最低限の会話を交わしますが、あなたにそれができないのなら、仕方ありません。
恋愛に慣れないあなたなりに、計算をしながら相手の態度を見極め、そして「イケる!」と思えば、お誘いの実行あるのみです。
さて、職場をはじめとする身近な女性に対してのお誘いについては、これまでとします。
もしこれを実行されるなら、上記リスクを覚悟して、玉砕覚悟で勇気をもって当たってください。
さて、そうしたわけであなたは、出会い系、街コン、合コンなどに参加することになったとします。
その際ですが、まずはとかく、いわゆるあなたのスペックと合う女の子に、声をかけるようにしてください。
つまり、無口で、なににおいても反応が薄く、意思表示がはっきりしない、いわゆる「陰キャ」の女の子です。
人間とは基本的に、自分と同程度の相手としか、つき合えません。
ならばあなたは、最初からあまりに自分の理想を追求するのではなく、好き嫌いをあまり出さず、ちょっと暗めの女の子を狙うのです。
ただしそういう子ほど、異性との交際経験が少ないため、そこには長所と短所があります。
まず長所として、「異性とつき合った経験が少ない」ため、こちらに従順である場合が多いです。
だから、あなたの頼んだことをしてくれる、あまりわがままを言わない、等の点が挙げられます。
そのため、『源氏物語』の光源氏と紫の上ではありませんが、あなたは彼女を、自分の好きな色に染めていく、ということも可能になるかもしれません。
私の見たところから述べればこの場合、こうしたタイプの女性は、若いほどあつかいやすいです。
彼女は原則として、素直で地味であるため、人生経験を積んでいない分だけ、純粋さを多く残しています。
ただこのタイプが恋愛経験のないまま、20代後半とかになってしまうと、いわゆる「こじらせ系」になる確率が高いです。
たとえば、自分の彼氏像を二次元キャラから妄想し、気に入った男性に少しでも欠点があれば、すぐに冷めてしまう。
あるいは、「恋愛とは、こうこうこういうものでなければいけない」のように、現実を柔軟に受け入れられない、等です。
ですがこうした女性でも、若いうちは大丈夫です。
ただし彼女は、ハッキリとした意思疎通が苦手なため、あなたが彼女の意向をくんでやる必要が出てきます。
その点は、まだ自分のことだけで精一杯のあなたには、少し厳しいかもしれません。
とかく、そうしてあなたが思い切って彼女とつき合うようになれれば、あなたは彼女から、多くのものが学べます。
これまで一人で生きてきたあなたですが、これからは「相手を思いやる」ということを、求められるようになります。
そこでもちろん、あなたは卑屈になりすぎないことも、重要です。
そうして恋愛のなかで、「相手を喜ばせ、自分も若さを満喫できれば」、必然的に、あなたも彼女も成長できます。
すると結果的に、彼女は明るく垢抜けた女性となり、あなたもウジウジした部分が、消えていくかもしれません。
なおさらに、2人のあいだで、「漠然とした好意」だったものが、いつしか本物の「恋」や、「愛」に変わっていくことも、考えられます。
https://www.pixivision.net/ja/a/1012
そのようにあなたが男性として成長できれば、そのときには別の女性との恋愛も可能となります。
なぜならその際には、あなたは「好き」という気持ちを理解できるようになっているためです。
そのためあなたは、「いろんな他者を受け入れる」ということが、可能となっているでしょう。
というのも「好き」とは、「感情レベルでその対象を肯定しているため、それに近づきたい、一緒にいたい」という思いだからです。
すでに一人の女性を「好きになり、受け入れた」あなたの中身は、より広く大きくなり、男女問わず、多様な人間が入るようになるでしょう。
ですから、もし最初の女性と結婚までいくなら別ですが、そうでないなら、あなたはいろんな女性と恋愛を重ねることで、人間の幅が広がります。
そして、真剣な気持ちで女性に向かっていけば、恋愛をくり返すごとに、あなたのココロはバージョンアップされていきます。
そのときのあなたはもちろん、女性の心理のアヤも、理解できているようになっています。
さらに当然ですが、自分の気持ちや、自分の「好き」もわかるようになり、自分のココロに素直に生きるということが、可能になっています。
そうなれば、そんな自信に満ちたあなたは、どんな女性ともつき合えるようになれているはずです。
とかく男女関係では、「相手を思いやる」、「たがいに成長する」ことさえ意識していれば、あなたの人間性そのものが、大きくなれているでしょう。
また、あなたという人間を磨き、さらに高度なレベルで、「好き」という気持ちを現実化させる方法が、もう一つあります。
それは、20代のころは恋愛に目もくれず、なにかに打ち込み、ひたすら自分を高めておく、ということです。
このときの注意点は、一つのことに没頭しつつも、視野狭窄にならないよう、多くのものに関心を持ち、多様な経験を積むことです。
打ち込む内容は、会社の仕事、自分で起こしたビジネス、趣味、スポーツと、自分を成長させてくれるものなら、なんでもいいです。
そうして自分という人間の価値や、社会的な地位を高めていくのです。
そしてそれらが一通り、自分の身についたと思ったところから、恋愛を始めるのです。
まず昨今の男性なら、30代からの恋愛デビューは、別にめずらしいことでは、ありません。
問題はそのときに、あなたがどれだけ魅力的な男性になれているか、ということです。
そんなあなたに見合った素敵な女性ならば、あなたに恋愛経験が少ないことなど、気にしません。
むしろ、一つのことに打ち込んで、自分を高めてきたあなたを、尊敬さえするでしょう。
この点について、私の空手の師匠は、40代前半まで、ずっと空手修行に打ち込んでいました。
ですが、師匠のそんな姿をずっと見ていて、憧れていた、美術教師をしている女性がいました。
結局、師匠はその女性と、その年齢で結婚することになったのです。
師匠夫婦は、とても仲が良く、いまでもたがいに尊敬し合える関係を、ずっと続けています。
また、そうした生き方は、私の20代のものでも、あります。
私の場合は、別に異性を意識したからというわけでもありません。
しかしある事情から、「自分で自分を創り変える」ということをしなければ、ならなくなりました。
そのために、各種学問や、空手等に励んだというわけです。
じつは20代前半まで、私は女性が怖かったです。
というのは、私は幼少期に病弱だったため、母に過保護に育てられたためです。
そうして私には姉がいたのですが、姉は母がそんな私ばかりにかまうので、年中不機嫌で、私に当たり散らしていました。
いま思っても、鬼のような女だと思います。
たとえ環境と寂しい気持ちが、彼女をそうさせたにせよ、その狂暴さと私への憎悪は、いまから考えても並外れていました。
そして父は、そんな家庭には無関心で、そもそも家長として家を治める意志も精神力もありません。
そんな生活が、十年以上、続いたのです。
これは完全に現在でいう、「機能不全家族」でした。
そうした経験から、私は少年期には、女性とは自分に敵意を向けてくる存在と認識したので、女性が怖かったのです。
また中高生時代は、私のそうした怯えた態度と心身の病気のため、同世代の女性に避けられていたことが、多かったです。
そしてある事情から私は、高卒後にアメリカの大学へ、留学しました。
そこでは私の予想に反し、私は現地女性たちからは大切にされ、これは実りませんでしたが、恋もしました。
ところが、あることがきっかけで、私は翌年には日本に帰国しなくては、ならなくなりました。
ですが帰国後、アメリカでの経験が、女性に対する自信となりました。
当時の私は、自閉的な精神を抱えており、他者との認識交流がうまくいかないで、精神は子どものままでした。
ですが私はそこを、逆手に取ったのです。
私は栄養療法、温熱療法等で、心身の病気を改善させていきながら、男女問わず、多くの人と交わり、自分なりのキャラを、意図的に確立させていきました。
それは、「弟キャラ」、「お子ちゃまキャラ」でした。
私は、アメリカでの経験等から、「下手に出て入れば、自分は他人からは、可愛く見られる」ということを発見したのです。
さらに帰国後、「人は基本的に、他人には自分に関心を持ってもらいたく、自分の話を無条件で聴いてもらいたい存在だ」ということも、わかりました。
そうして試行錯誤の末、現在の自分のキャラを手に入れたと、いうわけです。
しかもこのキャラはまず、私は前述のように幼少期、少年期に父親から愛されず、母親から歪んだ愛をあたえらていました。
そのため「本当の愛」、「人から可愛がられること」に飢えていた私には、ピッタリのものだったのです。
そのため、20代後半になったときには、私にとって、女性は怖い存在ではなくなりました。
その後、それほど多くの恋愛経験を積んだわけではありませんが、少なくともどんな女性とも、相手に警戒されずに親しくなる術を、私は身につけたのです。
その結果として私は、母性の強い年上の女性には必ず、どこへ行っても大切にされるようになりました。
そしてそれは、50歳目前となった現在でも、まったく変わりません。
何度も申しますが、「好き」という気持ちは、「感情レベルでの、対象の肯定的判断」です。
ならば当然、「可愛いもの」というのは、とくに女性には強く訴えるものがあります。
なぜなら女性とは、子どもを産む存在で、その子どもが可愛いほどに、「大切にして、後世まで生かしてあげたい」という感情が働くからです。
また「可愛い者当人」にしても、その魅力は相手の保護本能に作用するため、生存に有利です。
こうした理由から、子猫や子犬、人間の子どもや無力な女性等、自力で生きていけない弱い者は、「可愛い」容姿や仕草を身につけている場合が多いのです。
また若いころの私は、いわゆる親分肌の男性にも、よく可愛がられました。
彼らから見ると、私は「出来の悪い弟」のように映ったようです。
ですから私は、バイトなどでしょっちゅう失敗していましたが、そうした男性たちに、「いいよ、いいよ」と、大目に見てもらえた経験が、腐るほどあります。
そのように、「可愛いから、好き」という感情は、その対象を活かすほどに、人間に強く働きかけるのです。
私は青年期に、上記のような経験を多く積んだため、いまではすっかり、高い自己肯定感を持てています。
また若いころの自分が人からそうされたように、私はだれにでも親切にできます。
というより、私はとくに意識していないのに、人になにかを教えてあげたりすると、よくこう言われるのです。
「ほんわかさんって、なんでそんなに優しいの? だれにも対しても、おなじ態度なの?」と。
そのように、もしあなたが、自分のひ弱さなどがコンプとなっていれば、それを逆手に、武器にすることもできるのです。
またその際、とかく重要な点は、なににでも挑戦し、あくまで自分自身と必死になって闘うことです。
それによりはじめて、「自分」というものが見えてきます。
逆にいえばあなたが、これまで「自分」がわからなかったのは、自分の意志でなにかに必死になって挑戦してこなかったから、ともいえます。
そうして物事を達成させることに、あるいは自分自身を高めることに一生懸命になれば、きっとあなた自身、「自分は、何が好きか」ということも、わかってきます。
さらにはそうやって生きていれば、「自分は、その好きなものを、どうしたいのか」、「どのようにすれば、それを手に入れられるのか」も、見えてきます。
またくわえて、女性とは基本的に、一生懸命、物事に取り組んでいる男性が好きです。
ところで私は以前に、試食販売員をやっていました。
そこでは私は、仕事をつうじてビジネスのノウハウ、つまり、モノはどうしたら売れるのか、という研究をしていたのです。
そのため、お客さんにモノを売るときは、さまざまな試みをし、懸命になって働いていました。
これは、私を雇っている会社にとっても、私が多くを売れば得をするのだから、win-win の関係だったはずです。
そうしたわけで私は、いたって真面目に働いていました。
ところが後になって上司から、その店の店員の女性たちが、私を好いていてくれていたと、知らされました。
なんでも、夢中になって取り組む私の姿勢が、女性たちの共感を呼んだようです。
これは私にとっては、意外なことでした。
また当時の私の同僚は、9割方、女性でした。
そしてその仕事を始めたばかりのころ、私はまったくできない販売員でした。
そこから自分なりに研究し、人の技術を盗んで、最終的にはその会社の全国的トップセールスマンへとなったのです。
そうした事実も加わってか、私はそこの会社では、すっかり人気者でした。
そのように女性とは、何事にも一生懸命な男性を好みます。
その心理はおそらく、それほどまでに仕事を大切にするなら、女性にも気を配れる人なのでは、と考えるからだと思います。
またあるいは、一生懸命に働くため、社会で出世しやすい、と判断するのかも、しれません。
よって、もしあなたに欠点や弱さがあったとしても、それを卑屈に感じる必要は、ありません。
むしろ露骨でない範囲で、それを克服しようとしている姿を、人に見てもらうべきです。
そうすることで男性はもちろん、女性にも、あなたは好かれることになると思います。
ですからあなたは、「自分の弱さをさらせる勇気」さえ持てれば、それはかえってあなたの長所にもなるはずです。
そうして本当に強くなれれば、あなたは堂々と、好きな女性にアタックすることも、できるようになるでしょう。
さて、ここで結論を述べれば、現在のあなたがいい恋愛をし、「人を好きになる気持ち」がわかるためには、2つの道があります。
第一点は、とかく陰キャで地味目の女性との交際から始め、恋愛遍歴を重ね、最終的に自分にとって最高のパートナーを見つけること。
次は、青春時代をあえて捨てて、その期間をひたすら自分磨きに徹すること。
そのときには、自分の長所も短所もよく分析しながら、どちらも世渡りや恋愛の武器になるか、検証し、実験を重ねることも重要です。
そしてそこから、あらためて恋愛へと入っていくことです。
先ほども述べましたが、現代では男性の30代からの恋愛デビューは、決して遅いものではありません。
重要なのは、あなたがそれまでに何をしてきたか、それとそのときのあなたは、何者になれているか、という点です。
そのようにしてあなたは、ご自分の「好き」を、社会的に現実化していってほしいと思います。
まず「好き」とは、どういう感情か?
それは、哲学上ではこの世に3つあるとされる真理、<真・善・美>における、「善」の真理を指します。
そして「善=道徳」であり、この概念は、一般的人間が持つ価値判断材料、「感情」に属するものです。
さらに「好き」とは、「感情による、対象の絶対的肯定判断」となります。
つまり「好き」とは、通常の人間にとって、対象の存在を肯定する気持ちにほかなりません。
くわえて、「好き」が発展すれば、それは「愛」になります。
元来的には人は「好きなもの、好きな人」に対して、素直であっていいものです。
しかし人間は、社会的存在でもありますので、「公」と「私」を、ある程度は切り離さなければなりません。
そして、「私」の事情を「公」に持ち込むわけにはいかないという事情があるため、人は社会的に自分の「好き」をなかなかに実現できません。
それにくわえ、人間は幼児から大人への発達段階で、「理性」や「性欲」が目覚めてきます。
よって社会のなかで「好き」を実現できるのは、青年期以降となります。
ところで充分な愛情や教育を、幼年期、少年期に受けた人は、基本的に大人(青年期以降)になってからの恋愛が可能です。
ところがそうでない人は、まず大人になっても自分の気持ちがわからない、自分の願望をどうやって実現すればいいか、わからない、となります。
ちなみにそうした欠陥家庭、いわゆる「機能不全家族」で育った若者は、現在では多数派にさえ、なっています。
そうして育った青年が、自分の「人を好きな気持ち」を実現させるには、2つの道があります。
まず第一点は、自分と同レベルに暗い女の子との恋愛から始め、恋を重ねていくことで、最終的なパートナーと結ばれること。
もう一点は、とかく若い時期には恋愛から背を向け、ひたすら自分磨きや仕事に打ち込むことです。
そして30歳をすぎたころ、人に誇れる人格や社会的地位ができてから、あらためてパートナーを探せば、いいのです。
また後者の道を選んだ場合、とにかく一生懸命生きること、自分の長所や欠点を見つめることで、勝手に恋愛の武器が手に入ることも、あります。
いろんなものが充実しすぎていて、かえって恋愛がしづらい現代ですが、どうかあなたなりに、ご自分の「好き」を、社会的に実現させてください。
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