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私は若い頃は、ずっと寂しい気持ちとともにいました。
端的に述べると、私は20歳から22歳くらいにかけては極度のウツ状態で、つねに自殺願望に苦しめられていたのです。
それがあることを境に、衝動的で慢性的な自殺願望そのものはなくなり、それからはむしろ、いつも躁状態にあるような感じでした。
自分を取りまくすべてのものがおかしく、いつもなにかを思い出しては、笑っているという状況に陥ったのです。
じつはこれはこれで、自閉的な精神状態の現れだったのですが、とりあえず私は、極度のうつ状態からは、脱出できました。
そうすると前述したように、躁状続がやってきて、私はどんなものも面白く感じたのでした。
しかしそれでも、私のココロには以後20年以上、なくなるどころか、年を経るごとに大きくなっていく感情が残りました。
それが“寂しさ”です。
かつて「幽遊白書」というアニメのオープニングで、こんな歌詞がありました。
♪都会(まち)の人ごみ 肩がぶつかって ひとりぼっち
果てない草原 風がビュンビュンと一人ぼっち
どっちだろう 泣きたくなる場所は
2つマルをつけて ちょっぴりオトナさ♪
私の心情はまさに、これにピッタリでした。
多くの人のなかにいれば、そのだれとも繋がれない寂しさで辛くなる。
ひとりきりだと、救われはするが、物理的な孤独感は、ずっと背中にこびりついたようで苦しい。
あなたも間違いなく、こんな記事を読んでいるのですから、程度の差はあれ、当時の私と同様の気分でいることと思います。
ではなぜ、青年期にあるあなたは、こんな気持ちを味あわなければならないのか?
その点を、根本的な原因から解決法に至るまで、ここではご説明いたします。
まず一般論として、青年が感じる孤独とは、どういうものか、そしてそれは、何を根源としているのかを説きます。
結論から申しますと、それは「青年期」という時期が、「少年期」と「壮年期」の中間にある過渡期の時期だから、なににも依拠できずに寂しいのです。
はじめに「少年」とは、基本的に社会から保護された存在で、その身分は「家族の被保護者」というかたちに置かれています。
というのも、そもそも「少年」は、納税や労働のような、大人が社会に支払わなければならない義務を免除されています。
その上で少年は、ただただ勉強や社会性を身につけることだけに専念し、やがて大人になったとき、まともな社会人になれるよう準備をします。
ですからもちろん、少年は自分で日々の食事や日常的な雑用も、する必要はありません。
それらはすべて、彼のお母さんやお父さんが、ちゃんと用意してくれます。
ですから少年が属する家庭や社会がまともなものならば、少年は寂しさを感じる必要はありません。
なぜなら、彼が必要とするあらゆる人間関係や物質は、彼の両親や社会が保証してくれるのですから。
一方、「壮年期」とは何かというと、人がすでになんらかの社会的身分や扶養する家族がいる状態の時期を指します。
壮年期にある人は少年期とは対照的で、労働や納税の義務などが課せられます。
もしそれを果たさなければ、彼は家族を養うことができず、社会的に生きることも許されなくなるでしょう。
その代わり、彼には少年とは異なり、「人の迷惑にならなければ、自分の望むことをしてもいい」という権利があたえられています。
これはたとえば選挙権であり、飲酒や喫煙、異性との性行為などが当たります。
ですから「義務もあるが、自由意志による権利も認められる」。
これが壮年期の特徴です。
さらに述べれば、この年齢の人物には、基本的になんらかの社会属性を負うことが求められます。
ここは端的に述べれば、「どんな職業に就いているか」という点です。
会社員、医師、教師、公務員、販売員、サービス業、自営業……。
その内容は多岐にわたりますが、なんらかの職業に就いていることにより、社会属性を持つことを、壮年期の人間には期待されるのです。
以上の点から、「少年期」と「壮年期」のあり方が、わかりました。
そしてあなたの現在である「青年期」とは、その「少年期」から「壮年期」への過渡期としてあるということです。
この「過渡期」というのは、あらゆる意味において、そうなのです。
社会属性はもちろんですが、肉体でも精神でも、「青年期」とは過渡期です。
この点を、ご説明していきます。
たとえばあなたがいま、大学生であったら、たしかに「大学に属している」とは、いえます。
しかし大学というところは、基本的に4年、長くても8年しかいられません。
そして基本的に大学とは、卒業時に就職先や進学先が決まっているというのが、前提となります。
またもし、あなたが社会人であっても、その会社に一生いるとは、かぎりません。
なにしろ若いときほど、自分の適性や能力がわからないし、完成されていないので、転職する可能性も高いからです。
つまり、若い人は早々に、自分の居場所や社会属性を決められないといえます。
この点は、肉体についてもいえます。
あなたがまだ20代前半なら、あなたの骨格はまだ、完成されていないはずです。
筋肉はついてきて、あきらかに少年時代のものとは異なるが、まだ大人のものほどには、ガッシリとはしていないと思います。
ちなみに、男性のファッションモデルの場合、引退はほぼ25歳くらいだそうです。
その理由は、その年齢では骨格ができ上るため、少年的な華奢さ、繊細さがなくなりゴツくなるため、モデルには適さなくなるからだそうです。
ちなみにですが、下は「永遠の青春の象徴」、ジェームスディーンの身体つきです。
この時点で、ディーンは23歳。
まだまだ弱々しい少年のイメージが残る身体つきだと、私は思います。
さて、最後に精神です。
こちらも、あなたは現在もう会社員だとします。
しかしあなたは、自分が一人の社会人、務め人であることに、なかなか実感を持てていないのでは、ないでしょうか?
多くの義務を負いながらも、すべては自分の意思によって、自分の人生を決めていかなければならないとは、思えないのではと推測します。
この点は、同年代の同僚や友人を見ても、そう思えるのではないでしょうか?
もちろん、すでに慣れた感じで、テキパキと仕事をこなす人もいるでしょう。
ですが多くの人が、仕事そのものにも不慣れで、自分が社会人だとなかなか自覚できずに働いているようには、見えませんか?(´・ω・`)
実際に私は、社会に出て1~2年目という若者に出会うと、そんなふうに感じることが多いです。
そのように青年期とは、すべてにおいて過渡期であり、あらゆることがハッキリしない。
だからあなたは、その不安定さに振り回され、とてつもない孤独や寂しさを感じるのです。
というのも、たとえば高校や大学への進学も、同世代の人すべてが共有する悩みや問題であり、それはあなた一人が抱え込むものでは、ありませんでした。
さらに当時は、学校の先生やご両親など、あなたの決定には、つねに味方がいたはずです。
しかし今回の場合は、事情が異なります。
仕事にしろ、今後の生き方にしろ、基本的にあなたはあなた一人で、立ち向かわなければならないのです!! (`・ω・´)
少なくとも、主人公はあなたしかおらず、まわりの人たちはあなたに助言はできても、なにかの決定をあなたに強制はできません。
すべては、あなたが決めるのです。
そしてあなたの決定については、あなた自身が責任を負わなければいけません。
こうしたことから、「青年期の苦悩、寂しさ」の特徴がわかってきたことでしょう。
なにしろ青年期には、社会属性、肉体、精神、すべてが大人のものへと変わっていき、あなたはそれを否応なく経験させられるのです。
この「拠り所のなさ」は、あなたに寂しさを感じさせるにあたり、充分なものでしょう。
ここで話は、心理学に移ります。
20世紀初頭にユングという心理学者がおり、彼は「集合無意識」という概念を案出しました。
これを簡単に述べると、「基本的に人間は“無意識”のレベルで、みなが繋がっている」とするものです。
つまり、表層意識で考えることは、人それぞれだけど、万人は「無意識」という共通のデータベースを共有している、ということです。
私自身のこれまでの研究や経験では、この「無意識」にアクセスするには、人には一定の「落ち着き」が要求されます。
この「落ち着き」とは、ちょうどラジオの周波数のようなものと、考えてもらえれば大丈夫です。
たとえば、NHKラジオの周波数は、東京では594kHzです。
そこでもし、あなたが東京でNHKラジオを聴きたければ、あなたのラジオの周波数を、極力、594kHzに近づけねばなりません。
そうでないとあなたのラジオは、ノイズばかりを拾い、肝心のNHKラジオを聴けなくなります。
そして先述の「集合無意識」ですが、これは原則として、人はとくに意識をしなくても、アクセスできるものです。
そうしてその限りにおいては、人は極度の寂しさを感じることは、ありません。
なぜならその場合、彼は「自分は万人と繋がれている」という実感が、言語化しなくても、感情で理解できるからです。
ところが青年期とは、何度も申し上げるとおり「過渡期」です。
ですからこの時期に、「自分」を見つめすぎた結果、「集合無意識」へと繋がれなくなり、極度の寂しさに襲われる場合があります。
つまり、彼の精神周波数が高すぎるため、彼は「集合無意識」へとアクセスできないと、言えばいいでしょうか。
その良い例が、ドストエフスキーによる文学作品『罪と罰』の主人公、ラスコーリニコフです。
『罪と罰』のおおよそのストーリーは、以下になります。
時は19世紀の帝政期ロシア、首都サンクトペテルブルク。
ここに頭脳明晰だが、貧しさから大学を退学せねばならなくなった青年、ラスコーリニコフがいた。
ラスコーリニコフはナポレオンの信奉者であり、「天才は自己の理念のため、凡人を殺しても許される」という思想に取りつかれていた。
そこでラスコーリニコフは、金貸しで強欲な老婆を殺害し、その財産を奪うことを決意する。
ラスコーリニコフはその計画を実行するが、その際に老婆の義妹までも殺してしまう。
その日よりラスコーリニコフは、激しい罪の意識と後悔に襲われる。
ラスコーリニコフの緊張が極限に達したとき、彼は純心な娼婦、ソーニャと、彼が事件の犯人だと確信している判事、ポルフィーリに出会う。
ラスコーリニコフは、ソーニャとポルフィーリの説得により、ついに自首を決意する。
ラスコーリニコフは裁判の結果、シベリア送りとなるが、そこに面会に来てくれたソーニャのおかげで、ようやく人間らしい心を取り戻す。
そして自分も人間の一人にすぎないことを、悟る。
上に挙げたラスコーリニコフのように、人間は精神的、物理的、社会属性的、すべてにわたり孤独な環境に置かれると、「集合無意識」から孤立します。
なぜなら、彼には共感を共有する相手がいないからです。
その結果、自分自身を抽象的にだれよりも高い位置に置き、「人間を超えた人間」とまで、妄想するようになります。
若いときはとくに、そうした事情から「意識(テンション)の極端な高さ」が、人を極度の寂しさへと追いつめることもあります。
次に、私の場合を述べます。
私は幼少期から病弱で、さらに潜在的な精神病の性質を持っていました。
くわえてその延長として、アトピー性皮膚炎も、長く患っていました。
そのため私が17歳のとき、父が口コミで知った病院へと私を連れていき、私はそこで処方された薬をそれから3年間、服用を続けました。
ところがその薬は、じつはたいへんな劇薬であり、長期服用は厳禁なものでした。
とくにそれは、精神に多大な悪影響をおよぼすものでも、あったのです。
そして20歳のとき、精神の高ぶりに耐えられず、私は自殺を図りました。
そのときの私は、とかく理性だけは異常に働いて、「感じるココロ=感性」が完全に麻痺していたのです。
そのため人と会話や共感が成り立たず、たえずテンションが高く、興奮しているという状態でした。
ところで前述したように、「集合無意識」とは、ラジオの周波数のように、意識が高すぎても低すぎても、そこにアクセスできません。
そうして極度の緊張から、私の精神は絶対的な孤独へと、陥ったのです。
なにしろこの状態では、「自分が一人の人間で、いまここに存在している」という実感が抱けなくなるのです。
ですから私は、その不安から意味もなく饒舌になり、人に話しかけたり、それでいて話す内容は、支離滅裂だったりしたのです。
ところでこれまで、主に若者が極端な寂しさに追いやられるケースを見てまいりました。
そこで今度は、そうした人たちとは対極にいる、絶えず精神が安定しており、感性が満たされている人の場合を、見ていきます。
それは具体的に述べれば、ヨガの行者や、禅や武道の達人です。
こういう人たちは、たとえ性格が気さくであっても、意味のない言動は、絶対にしません。
なぜなら、彼らは「集合無意識」もしくは「大自然の意識」とつねに一体化しているので、その安心感から、つねに落ち着いて無口なのです。
失礼ながらそのあり方は、いまのあなたと正反対のものではないでしょうか?
あなたはおそらく、無口であっても必要なときに自分を主張できず、饒舌であっても、無意味なことしか話せないはずです。
つまりあなたは、ハッキリと申し上げて「つまらない人間」なのです。
そうしてあなたがそうなったのは、端的には、あなたの育ちに起因するものです。
どうして私がそう断言できるかと申せば、私自身の育ちから、自分もそういう人間だったと、いまになりよく理解できるからです。
まず私の母は、幼少期のトラウマにより、病弱な私を必要以上に構いました。
これが私の精神的成長を阻んだことは、言うまでもありません。
そして父はといえば、上っ面はいい人なのですが、こちらも育ちに問題があり、精神は幼いままで、「人を愛する」ということのわからない人物でした。
ですから父は、私をよくいろんな場所に連れていってくれたりもしたけど、人生でもっとも大切なことは教えてくれませんでした。
それは、「魚ではなく、“魚の採り方”を教える」ということでした。
また父は、「犬や猫は、放っておいても勝手に大きくなる。人間も同じや」と、本気で信じている様子でした。
ですから私は、父に接するたびに、たとえ一緒にいる物理的時間が長くとも、その都度、無視され、心に傷を負っていたのです。
この点は、私が28歳のとき、あるクリニックに生活改善のため、入院したときに思い知らされました。
そこには、私のような現代的な育ちの病気に苦しんでいる人たちが入院しており、そこで共同生活をして、まともな人間関係を構築するというプログラムでした。
ですから病棟には、小さなこどもとその親御さんを中心に、いろんな人がいました。
そこで私は、大人の人とはそこそこうまくやっていけるのに、なぜかそこにいる子どもたちを、知らず知らずのうちに無視していました。
そのことは、そこのケースワーカーさんに指摘され、自分でもやっと気づいたという次第です。
そこからわかった点は、次のことです。
私は幼少期から、父よりネグレクトされてきたので、私のココロ自体が凍りついていた。
そして私は、つねにアタマを働かせながら、理性による対人関係をこなしていたので、感情や愛情による人との関与ができなかった、ということです。
ですがここで注意までに申しておきますと、過去にはともかく、現在では父に対する恨みの気持ちはありません。
というのも、父はそう育ってしまった人なので、私を育てる際にも、それ以外の方法が思いつくはずもないということが、いまになってわかるからです。
ただし、その点を何度も父に説明しても、まったく理解してもらえないのは、閉口ものですが。(^^ゞ
そうしたことから私は、幼少期から歪んだ家庭で育ったため、ココロが冷え込んで、他者との共感が持てない人間になっていた、というわけです。
そこから私が気づいたことは、主に青年期における寂しい気持ちの正体とは、何ものとも繋がれない精神の孤独だ、ということでした。
これは、家族、友人、恋人、同僚、他人、そして社会、すべてにおいて、そうなのです。
では、若い頃の私と同様である、そんなあなたは、どうすればいいのか。
それについては、下記を参照にしてください。
寂しい気持ちに、肉体・精神の両面からアプローチする有効な対処法について
青年期特有の寂しさとは、精神、肉体、社会属性、「なにもかもが、過渡期にある」ところからくるものでした。
青年は、能力や適性にかかわらず、大人同様の仕事をまかせられるが、彼のココロはまだ子どものままだったりもします。
くわえて現代の若者とは、母親からは過保護に、父親からは無視され、育っているケースが多いです。
よって彼らは、大人になってなにもできない、だれとも繋がれない自分に気づいたりもします。
またそのような育ち方をした若者は、例外なくココロが冷えており、孤独から、自分の誇大妄想を、現実と混同してしまうこともあります。
これが、「現代青年」が感じる「寂しい気持ち」の本質です。
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