劣等感で苦しんでいるあなたへ。その正しい意味と付き合い方を教えます。どうか劣等感を成長の糧に!

はじめに

 

 

さて、今日のテーマは「劣等感」です。(*^^*)

 

 

劣等感って、イヤですよね。

 

 

 

人に「俺はもう負けた」って気分にさせて、自分がどこまでも小者になった感じがするんですから。

 

 

 

こんな劣等感なんて、存在しても仕方ないように思われます。

 

 

 

しかしそれでもやはり、劣等感にはそれなりに意味があるから、存在しているんです。

 

 

 

というのはまず、原始時代の人間は、というより、あらゆる自然界に棲む動物は、つねにまわりに敵がいる弱肉強食の世界に生きています。

 

 

 

ならば動物にとっては、自分自身や自分のまわりにいる動物の力量を見誤れば、たちまち捕らわれて食べられてしまいます。

 

 

 

ですから野生の動物は、対峙した相手が自分より強いと判断すれば、即座に屈辱とともに、その事実を認めます。

 

 

 

またさらに、たとえ同種間の生物のあいだでも、序列があります。

 

 

 

それはもちろん、そうした動物でも集団で行動するにあたっても、得た食糧は有限です。

 

 

 

よってそれを分ける際に、どうしても個々が得る量には、差が出てしまうからです。

 

 

 

この場合も、多くは身体的強さによって、序列が決められます。

 

 

 

もちろんその結果、上位のポジションを確保した個体は比較的安泰でしょうが、下位ポジションに置かれた者は、なんらかの屈辱感を感じるでしょう。

 

 

 

私にはその際に生じる、そうした敗北感、屈辱感こそが、人間の持つ劣等感の原点のような気がします。

 

 

 

この点、人間は社会的存在ですので、野生の動物より強固に、仲間たちとの「共働」により、社会で生きています。

 

 

 

そして人の生きる社会には、当然に序列があります。

 

 

 

さらに人類社会に「階級」というものが生まれたときから、自分がどの階級に属しているかで、得られるものが違ってきます。

 

 

 

それは食糧、財産、異性、特権、土地、奴隷、社会的ステータス等、おおよそ人間が所有しうるもの、すべてにわたって、そうなります。

 

 

 

そのように人間とは、「共働」して生活するという意味では、たがいに仲間ですが、属する社会においては、「階級」を争うライバル同士なんですね。(´・ω・`)

 

 

 

そして人類が「劣等感」なんてやっかいなものを持っているのは、この点にポイントがあるのです。

 

 

 

このページでは、ここをくわしくご説明していきます。

 

 

 

お楽しみに。(*^^*)

 

 

 

 

 

第一章 人間も動物も、どうしても序列づけをしなければ、気がすまない存在

 

 

 

 

 

さて、まずその「階級」ですが、これは当初は個人の能力で決められ、それが固定化、世襲化されていったのが、人類の歴史だといわれています。

 

 

 

マルクス主義者などはいまでも、「原始共産制」といって、当初の人類における社会では、階級そのものがなかったはずだと、主張しています。

 

 

 

それで私の考えですが、最初はたしかに厳格に固定化された階級らしきものはなく、漠然とした仕事の分担制のようなものが、あっただけではと思います。

 

 

 

ただしそのなかには、あいまいな身分的優劣は、存在していたように思います。

 

 

 

とは言ってもこれは、北アメリカのネイティブたちのような、共同体が得る食糧や物資が、共同体の成員すべてを満たせるくらい、裕福な場合にのみ当てはまりそうです。

 

 

 

またこの場合は、各共同体間に交通があり、「困ったときはお互い様」の精神で共存していることが、前提です。

 

 

 

さらに、そうした牧歌的社会は、いつまでも続くとはかぎりません。

 

 

 

地球が寒冷化し、農業をしなければ食糧が確保できなくなったとき、人類の歴史上、例外なく集住と農業化、都市化が始まっています。

 

 

 

するとおそらく、最初に宗教の司祭者のような者が現れ、共同体の方針を決める指導者として、地位が定着したのだと思います。

 

 

 

わが国でいえば、「邪馬台国の卑弥呼」みたいな人物ですね。

 

 

 

 

で、そうした古代社会においては、指導者は未来の予測や共同体の運命等については、超能力的な直観力で判断していたことでしょう。

 

 

 

すると、そうした特異な能力を受け継ぐのは、当然、その血縁者ということになります。

 

 

 

そこから、共同体内では宗教的指導者の立場にいる一族の地位が、共同体のリーダーとして固定化されたのだと思います。

 

 

 

なぜならそうした社会においては、農業の開始により、食糧の備蓄が始まります。

 

 

 

するとそれをめぐり、共同体間で激しい争いが発生するため、どうしても宗教的指導者の決定は重要となり、彼らの地位は頂点に上げられるからです。

 

 

 

さらにその際、農業生産物の出来、不出来も共同体にとって重要な事柄になるから、それを予測する神官の存在は、より重要なものになるのですね。

 

 

 

さらに彼の世話を直接する者、または親戚なども、無条件に恩恵にあずかれるようになります。

 

 

 

ところが、そうした社会は一時的には安定するでしょうが、内紛や敵の侵入などにより、身分制度自体が、さまざまな変化をとげていきます。

 

 

 

わが国においては、天皇が「政権を承認する権威」としてあり、それに貴族や武士などが認められることにより、社会の支配者として君臨してきました。

 

 

 

そうして江戸時代においては、「士農工商」として、個々人の身分はいちおうは定まって、固定されていきます。

 

 

 

ただし最近の研究ですと、当時の階級は、意外と流動性があったとされています。

 

 

 

たとえば武士が農民になったり、あるいはその逆も、なくはなかったと、言われています。

 

 

 

ところが明治維新をむかえると、「四民平等」ということで、形式的にですが、天皇を唯一の例外とした、平等な社会がやってきます。

 

 

 

さらに大東亜戦争の敗戦などを経て、個々人の身分差というものは、法律上は消えました。

 

 

 

その代わりに、個人の社会的ステータスを差別化するにあたって、「学歴」などが使われるようになります。

 

 

ですが平成になると、その学歴社会も影響力が弱くなり、国力の弱体化からわが国の社会は、無政府状態に近くなったのです。

 

 

 

よって現代では、個人の実力で、富をある程度、独占できる時代になっています。

 

 

 

ところがやはり、学歴社会の影響はいまでも少し残っており、その差は小さくても、それがある程度は意味を持つようになっています。

 

 

 

だからこそ、子どもたちは幼稚園の段階から、「お受験」をさせられたりするのです。

 

 

 

そのように、たとえ僅差であっても、人は自分と他者を比較することが、止められません。

 

 

 

たとえば、会社の同僚の年収が、自分より2万円高いだけでも、人はその差がものすごく気になったりします。

 

 

 

もちろん彼には、年に2万円の収入差など、実質的にはそれほどの意味はないはずなのですが。

 

 

 

それでもどうしても、同僚に劣等感を抱いてしまう。

 

 

 

それが、人間なのです。

 

 

 

私は「はじめに」で、動物が天敵に対して持つ敗北感のようなものが、人間にとっての劣等感の根源かもしれないと、申しました。

 

 

 

この場合、動物同士ですと、個体の能力差は先天的に決まっていますので、ポジションの逆転はほぼ不可能です。

 

 

 

しかし人間の場合ですと、人間は本能から離脱した社会的存在ですので、社会のなかで、自分の能力を高められます。

 

 

 

すると、人間ならばライバルに、自分の努力によって、追い越すことも可能です。

 

 

 

この点は、動物とは大きく異なる点です。

 

 

 

さらに野生の動物の場合においては、生態系の頂点にいるもの以外には、必ず天敵がいます。

 

 

 

しかし人間は、動物にない知恵をもって、地球の覇者となったので、個々人が争うのは、社会の内部においてのみとなります。

 

 

 

くわえて動物が持つ、対象に対する敗北感は、基本的に終生、変わることはありません。

 

 

 

ところが人間は、後天的な努力次第で、劣等感の対象を能力の面で追い越し、劣等感そのものをなくすこともできます。

 

 

 

そこから人間は、劣等感などというのを持つようになったのではないか、と思います。

 

 

 

そうして人間は、努力次第で逆転可能な相手や、あるいは自分に迫ってくる後発組に対して、つねに自分との能力差を比べます。

 

 

 

こういうのを最近では、「マウンティング合戦」などといいます。

 

 

 

 

これは自然界の動物が、身体的な大きさや強さを、つねに他者と比べ、自分のなかで優劣を決めることに等しい行為です。

 

 

 

なにしろ飼い犬でさえ、家のなかでの序列を自分で決めて、「自分より下」とみなした家族の命令には、従わなかったりします。

 

 

 

こうした差異には、主体性が弱く、社会に毒された不自由な人間ほど、より敏感になるといっていいでしょう。

 

 

 

つまり劣等感の虜になりやすい人とは、元来、自己肯定感が低く、他者からの承認欲求が強い人ということになります。

 

 

 

そうしてそんな人たちはほぼ例外なく、幼いときに親や年長者から、長所も欠点もふくめた、全人格を受け入れられなかった人です。

 

 

 

つまり彼のなかでは、幼少期における承認欲求が満たされないまま、大人になってしまったともいえます。

 

 

 

ただしそうした感情があるからこそ、人間は「自発的に自分を高める努力」もできる、自然界唯一の存在でいられるのです。

 

 

 

ですからそうした承認欲求を欠いた人でも、「努力して、自分を高めよう」とする態度自体は、悪いものではありません。

 

 

 

なぜならそうしているあいだに、彼の能力自体は向上するし、なにより自己肯定感の欠如から、他人を攻撃するようには、ならないからです。

 

 

 

さらにそうして向上させた自身の能力を、自分のエゴを満たすためでなく、社会のために役立てることができるのなら、それはそれで望ましいことです。

 

 

 

ですがそうした人の根底にあるのは、たとえ彼の行動が社会の役に立っていても、善意や思いやりではなく、やはり自己肯定感の欠如です。

 

 

 

よって、彼の善行も他者のために行っているというのではなく、あくまで自分の内部における欠落を埋めるためです。

 

 

 

ですから彼は、なにか人のためになることをしても、それは自分の内部における空洞を埋めるためのものなのです。

 

 

よってたとえ人に感謝され、一時的に彼の劣等感は治まっても、彼の根底にあるコンプレックスは、また新たな自己顕示欲を満たす方法を求めます。

 

 

 

そしてその際に彼が選んだものは、ひょっとして反社会的なものになるかもしれません。

 

 

 

たとえば、国内で独裁者となり、他国を侵略するといったような。

 

 

 

そこから劣等感とは、使い方次第で、毒にも薬にもなりえます。

 

 

 

次章からその両者の具体例を挙げて、検証していきます。

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第二章 多くの人は、劣等感を感じても、自分で積極的には努力せず、他人にヤジを飛ばす位置に立つ

 

 

 

 

 

そのように人間とは、どうしても自分と他者を比べていなければ、気がすまない存在です。

 

 

 

ですがこの場合、人は自分とまったく住む世界が異なる人間に対しては、そうした気持ちも持ちませんし、またもちろん、劣等感を感じることも、ありません。

 

 

 

たとえば、日本の一般市民ならば、天皇陛下に対して劣等感を抱いている人というのは、ほとんどいないでしょう。

 

 

 

そこから劣等感とは、同じレベルにいる人間同士のあいだで発生する感情と見て、間違いありません。

 

 

 

さて、ここで問題になるのは、そもそも他者に対して劣等感を感じるということは、異常なことか、あるいは健全なことか、という点です。

 

 

 

これについては、人間が社会的存在であり、社会のなかで生きていく存在である以上、健全なことだといえます。

 

 

 

なぜなら劣等感とは、一面において、「あいつとの差を埋めたい」という向上心の現れでもあるからです。

 

 

 

ところが大部分の人間は、他者に対する劣等感を抱いたら、それをなんとかしようとせず、自分のなかで固定させたまま、成長していきます。

 

 

 

その理由は、ほとんどの人間は他人に劣等感を感じても、努力してまでその人との差をなくそうとは、しないからです。

 

 

 

ですから劣等感を抱くこと自体は、健全な感情ですけど、それでなにもせずに、黙ってくすぶっているのは、あまりいいことではありません。

 

 

 

というのは、人間の多くは自分の感情を素直に受け入れがたいため、やがて他者への劣等感が、敵意に変わることも、あるからです。

 

 

 

たとえば現代では、IT化も進み、個人が自分についてのことを、自分で自由に発信できる時代になりました。

 

 

 

しかしそれでも、たとえばブログや YouTube 等で人気者になれるのは、それなりの才能やセンスのある、ごく一部の人たちだけです。

 

 

 

すると目立っている人に対し、劣等感や嫉妬を感じている一部の者は、ネット上などで「正義マン」となり、有名人や金持ち等を、倫理的に攻撃するようになります。

 

 

 

もちろん彼らは、自分が直接、その人から危害を加えられたわけではありません。

 

 

 

たとえば俳優が、妻子のある身でありながら、他の女性と関係を持ったといった程度の問題です。

 

 

 

しかし彼らは自分自身を絶対正義の立場に置きながら、「正論」でもって、相手を成敗しようとします。

 

 

むろんそんなことをしても、自分に得があるわけでも、自分自身のステータスが上がるわけでも、ありません。

 

 

 

ところが彼らは、自分の鬱屈した劣等感を処理するにあたり、自分が相手のレベルまで登ろうという努力はしません。

 

 

 

そうではなく、相手を自分のいるところまで、引きずり降ろそうとするのです。

 

 

 

そんな人たちは、妬み、ひがみ、そして劣等感をこじらせたまま、自分がなぜいつも他人に対して攻撃的なのかわからないまま、年齢を重ね、死んでいきます。

 

 

 

たとえそこまで行動的でなくとも、多くの人間は、本質が同じでしょう。

 

 

 

たとえば、キラキラ輝いている人が事故に遭ったりして不幸になれば、内心では喜んでいるといった具合に。

 

 

 

そのような生き方が、悪いとは言いません。

 

 

 

しかしそうした心がまえでいると、自分自身がどんどんと卑屈な人間になっていくし、その人の人生において、なんらの生産性もありません。

 

 

 

では、もしあなたがだれかに劣等感を抱いた場合、どうすればいいのか。

 

 

 

次章から述べていきます。

 

 

 

 

 

第三章 劣等感を抱いた相手には、その人の土俵で相対的に勝つか、あるいは自分だけの絶対的な道を歩むか

 

 

 

 

 

まず、あなたのように若い人ほど、自分の気持ちについては、素直にわかるものです。

 

 

 

というのも、人間は年を経るごとに、自分にとって都合の悪い事実や感情に対しては、自己正当化して、歪めたかたちで受けることに、慣れてしまうからです。

 

 

 

たとえば、じつは子どもが食べるようなお菓子が大好きなのに、彼らはそれを認めません。

 

 

 

「自分は、たまたまそこに置いてあったから、食べただけだ」といった言い訳を、他人や自分自身に対して、ついついしてしまいがちです。

 

 

 

やがてそうした習慣が身についてしまい、多くの大人は、事実や自分の本心を受け入れることが、できなくなっていきます。

 

 

 

ですが若いあなたは、少なくとも自分の感情については、それがどういったものか、たとえ言語化できなくても、理解はできると思います。

 

 

 

よってもちろん、自分の劣等感についても、ふだんはそれを感じないようにしてても、自分がある人に対し、劣等感を抱いているという事実自体は、わかるはずです。

 

 

 

だからまず、あなたはそれを事実として直視するところから、始めましょう。

 

 

 

だれかに対して劣等感を感じたならば、自分はその人のどんなところに、妬みを感じているのか、よく考えるのです。

 

 

 

そこから、劣等感を克服するには、二つの道があります。

 

 

 

まず第一点は、真剣勝負でもって自分を高めて、結果的に劣等感の対象となっている人物に、勝るようになることです。

 

 

 

また次の点は、自分だけの道を歩くことで、そんな劣等感など気にならないほど、そっちの分野でなんらかの成果を上げることです。

 

 

 

前者は相手との相対的な勝負であり、後者は自分だけの絶対的な生き方だと、いえるでしょう。

 

 

 

相対的とはもちろん、自分が劣等感を抱いている人と同じ土俵で、その人以上の実績を残すことを意味します。

 

 

 

 

 

第四章 野村克也と王貞治、西本聖と江川卓の関係に見る、劣等感を闘志として燃やす姿

 

 

 

 

 

上に挙げたような例は、スポーツや勝負事の世界では、よくある話です。

 

 

 

それは「あいつには負けたくない!」という思いから、自分にハードな練習を課して、自分の技量を向上させることを意味します。

 

 

 

たとえば、昭和時代のプロ野球では、「世界のホームラン王、王貞治」に劣等感を抱いた、野村克也の例が有名です。

 

引用

https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/baseballonline/sports/baseballonline-097-20200810-12

 

 

 

野村は捕手という激務をこなしながら、戦後初の三冠王になった大選手です。

 

 

 

しかし野村は、当時、ジャイアンツにいた王貞治に、自身のホームラン記録を抜かれてしまいました。

 

 

 

さらに、当時の野村が所属していた南海ホークスはパ・リーグの不人気球団であり、試合はいつも、閑古鳥の巣でした。

 

 

 

それに対し、王の在籍していた読売ジャイアンツは、毎試合、満員御礼の人気球団で、王もまた、当時の日本が誇るスーパースターでした。

 

 

 

そんな王の人気と実力に劣等感を抱いた野村は、「王に負けてたまるか!」の一心で、野球を続けていきました。

 

 

 

その結果、野村は生涯ホームラン数では、最終的に王におよびませんでしたが、代わりにさまざまなプロ野球記録を、打ち立てました。

 

 

 

たとえば野村の打席と打数は、現在でも日本のプロ野球で1位です。

 

 

 

くわえて本塁打王9回、打点王7回、ベストナインは19回を、受賞しています。

 

 

 

ちなみにベストナイン19回は、日本プロ野球史上最多の記録です。

 

 

 

さらに現役を退いても、1990年から野村はセ・リーグのヤクルト・スワローズで監督を勤め、「ジャイアンツには、負けてたまるか!」と闘志を燃やし、必死に指揮を執りました。

 

 

 

その結果、野村ヤクルトは1990年代に、4度のリーグ制覇、3度の日本一に輝いたのです。

 

 

とくに1995年と1997年は、評論家による下馬評は最低で、「ヤクルト優勝」を当てたのは、95年にはゼロ、97年には1人といった有様でした。

 

 

 

ところが野村はそんな最低の戦力でも、知恵と策を駆使することで、見事に下馬評をくつがえし、チームを優勝へと導いたのです。

 

 

 

ちょうどジャイアンツが、カネとステータスで他球団の強豪選手を採りまくったのに対抗し、野村はあくまで自身の知恵と経験で挑んだのです。

 

 

 

また、そうしたライバルの物語は、1979年から80年代におけるジャイアンツの、江川卓と西本聖のあいだでも見られました。

 

 

 

江川は高校時代から「怪物」と呼ばれ、常識はずれのピッチングを見せる、甲子園のヒーローでした。

 

 

 

そんな江川に対し、西本はアマチュア時代から劣等感を抱き、それを闘志に変えていったのです。

 

引用 https://baseballking.jp/ns/column/228438

 

 

 

江川は大学卒業後、すったもんだがありましたが、ドラフト1位で阪神に入団し、そこから即座に巨人へトレードというかたちで、巨人軍入団を果たしました。

 

 

 

そのとき西本はすでに、高卒選手として、ドラフト外で巨人に入団し、在籍していました。

 

 

 

江川は最初、自分に猛烈な敵意を向けてくる西本を、まったく意識していませんでした。

 

 

ところがその江川も、執念で巨人のエースの座に挑んでくる西本が、少しずつ気になってきました。

 

 

 

ちなみに江川は、本格的な剛速球投手でしたが、西本はシュートという変化球を武器に、江川に対抗しました。

 

 

 

結果として、巨人時代の2人の勝ち星は、江川135勝、西本126勝と、ほぼ互角でした。

 

 

 

また2人のプロでの通算防御率は、江川 3.02 に対して、西本 3.20 と、こちらも非常に、肉薄しています。

 

 

 

ただしプロ生活は、江川がたったの 9 年だったのに対し、西本は 18 年と、2倍長かったことは考慮しなければなりませんが……。

 

 

 

さらに江川と西本は、毎年4度ずつ交代に、開幕投手を務めました。

 

 

 

またどちらかが先発していると、大事な場面では2人とも、「頼むから、打たれてくれ」と、ベンチで祈っていたそうです。

 

 

 

その後、江川は若くして引退したため、西本は生涯成績での勝ち星は165勝で、江川より30ほど多く勝てたことになります。

 

 

 

というのは西本は、江川引退の翌年、中日にトレードされ、そこで年間20勝を上げるなど、活躍したからです。

 

 

 

ここから野村にせよ西本にせよ、ライバルと同じ土俵で闘うにせよ、自分はそのライバルと、別の武器で挑んだのがわかります。

 

 

 

つまり、野村はカネとブランドの巨人に対しての知恵であり、西本は江川の剛速球に対しての、鋭い変化球というわけです。

 

 

 

もしあなたも、劣等感を感じるライバルがいるのなら、彼と異なる、自分だけの強みや武器を見つけ、それで相手と闘うことをオススメします。

 

 

 

 

 

第五章 劣等感を抱いているライバルたちとは別の、自分だけの絶対的な道を歩く

 

 

 

 

 

また次に挙げるのは、自分が劣等感を抱いている相手とは、まったく別の道に進み、そこで成果を上げて、それを絶対的な自分の誇りとする生き方です。

 

 

 

たとえばあなたは、現在の会社にいては、あなたの実力や学歴では、どうしても同期たちより上に行けないと、思ったとします。

 

 

 

だがあなたは、彼らにはどうしても、負けたくありません。

 

 

 

ならばあなたは、たとえば趣味の世界などにおいて、自分の満足する結果を出せれば、劣等感からは解放されるはずです。

 

 

 

なぜならそのときのあなたは、「人は人、自分は自分」と考えていられるので、他人のことは気にならなくなるであろうからです。

 

 

 

このときあなたが打ち込む分野は、なんらかの作品制作、スポーツや武術の習得、楽器の演奏などがあります。

 

 

 

たとえば休日には、スポーツや武術に没頭し、大会などで優勝してみせる、あるいは楽器などのコンクールで入賞を目指す、ということをすればいいのです。

 

 

 

そうした努力の末に習得した技術は、あなたの肉体にいつまでも残り続けます。

 

 

 

また、「大会で優勝した」という事実も、打ち消せない現実として、ずっと記録されます。

 

 

 

ですから、もしあなたが劣等感を感じたとき、必死で習い覚えた武術の型を演じてみる、楽器の演奏をしてみる等のことをすればいいのです。

 

 

 

するとあなたは、「俺には、これがあるじゃないか」と、自分自身を納得させることが、できるでしょう。

 

 

 

また、そうした趣味の世界における能力以上に、あなたがそうした世界で、自分をそこまで高められたという事実のほうが、より価値があります。

 

 

 

なぜならそれは、あなたがご自分の意志でもって、やりとげたことだからです。

 

 

 

また、趣味の腕前をそこまで向上させた、あなたなりの上達論は、それがキチンと理論立てて取り組んだものであれば、なお良しです。

 

 

 

というのも、それはあなたが他の分野でなにか別のことを習得するときは、きっと役立つでしょうからです。

 

 

 

ですからそれが、後々、会社の仕事や自分の事業などでモノを言うということは、充分にありえます。

 

 

 

たとえば私が参考にしているメルマガを発行している人で、サラリーマンをしながら、全力でテニスに励んでいた方がいます。

 

 

 

彼は最終的に、日本ランキングの300位くらいまで行ったそうです。

 

 

ですが、そのときの彼は意識していなかったようですが、彼がネットビジネスに転向を決めてから、それがおおいに役立ったようです。

 

 

 

というのも、彼の販売した最初の商品が、まさにテニスについての自作の情報商材だったからです。

 

 

 

それをきかっけに彼は、現在ではネットビジネスでの成功者として、地位を築いています。

 

 

 

さらには、私がその作品を愛読している、関裕二という作家さんがいます。

 

 

 

関氏はもともと、イタリア料理のシェフさんでしたが、奈良の仏像に魅せられ、何度も奈良に足を運ぶようになりました。

 

 

 

そうして関氏はやがて、日本の古代史を深く勉強するようになりました。

 

 

 

その過程で得た関氏自身の発見を、作品として雑誌のコンクールに提出すると、入賞し、関氏は作家デビューを果たしたのです。

 

 

 

現在、関氏は、日本古代史についての本を、200冊以上は出しています。

 

 

 

そのように、趣味も必死で極めれば、充分に職業となりえます。

 

 

 

ですからあなたも、なにかにまじめに打ち込んでいれば、それが思わぬ未来を引き寄せることは、存分ににありえるはずです。

 

 

 

それをなしえたとき、あなたきっとはつまない劣等感とは無縁になります。

 

 

 

というより、「なんで俺はあんなことに、意固地になって劣等感を抱いていたのか」というようにさえ、なれるでしょう。

 

 

 

また最後に、これはたいへん稀で困難な道ですが、「相対的な勝負を勝ち抜いて、絶対的な境地に至る」という人生のあり方も存在します。

 

 

 

これは、武術、芸術、政治などの世界で、ライバルたちの競争に勝ち抜いて、その道の絶対的頂点に立った者のみに、可能な生き方です。

 

 

 

彼らは、数十年の闘いと研鑽の末に、もはやライバル不在の、その道における絶対的王者となっています。

 

 

 

その後彼は、自分の歩いてきた道を探りつつ、「武術とは、芸術とは、政治とは」と、自分の専門分野の奥義を極めるのです。

 

 

 

これはたとえば、真剣勝負で生涯無敗を誇った宮本武蔵が、剣術の奥義書、『五輪の書』を著したこと。

 

 

 

あるいは「能」の道を究めた世阿弥が、芸能や演劇における秘伝の書、『風姿花伝』を遺したことなどが挙げられます。

 

 

 

人としては、この道を歩むことこそが、最高の生き方となるでしょうが、同時にもっとも困難な道でもあります。

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第六章 「自己肯定感を高める」という第三の道

 

 

 

 

 

さてこれまで、あなたが劣等感を感じた場合、そのライバルと同じ土俵で戦う「相対的な道」と、自分だけの世界を行く「絶対的な道」を、ご紹介してきました。

 

 

 

次には、このどちらとも違う、「第三の道」を、ご紹介したいと思います。

 

 

 

それは、あなたご自身の「自己肯定感」そのものを高めるというやり方です。

 

 

 

具体的には、「ソルフェジオ音楽」、「サブリミナル音楽、画像」の鑑賞や、手鏡を使って自己暗示をかける等があります。

 

 

 

 

低い自己肯定感を高める二つの鍛錬。無数の自己否定を重ねるか、根拠ゼロでも自尊感情を育てるか

http://nayamimuyou.net/cocolo/jikokoutei.html

 

 

 

さらには、ご自分の存在を認めてくれる、恋人や家族を得ること、あるいは大切なペットを飼うことなどが、挙げられます。

 

 

 

 

 

低い自己肯定感を絶対的に高める習慣とは、無数の自己否定を重ねること

http://nayamimuyou.net/cocolo/jikokoutei.html

 

11 第十一章 「自分が必要とし、自分を必要としてくれる人」を、見つける

 

 

 

またこれらについては、他のページでもすでに述べましたので、そちらを参考にしてください。

 

 

 

 

強すぎる承認欲求を満たす方法は、そのエネルギーをすべて、自分を成長させることに向けること

http://nayamimuyou.net/cocolo/shouninyokkyuu.html

 

7 第七章 受動性を能動性に変換し、小さなことで承認欲求を満たす

 

 

 

 

 

第七章 「自分を無にして」、自分自身を構築した私の場合

 

 

 

 

 

さて、私がここまで述べると、「あなた自身はどうやって、劣等感を克服してきたの?」という疑問も出てくると思います。

 

 

 

ですので、それをここで語ります。

 

 

 

私の場合は、「徹底して、自分を殺すやり方」で、これまで生きてきました。

 

 

 

まず私は、少年期からひ弱だった、というより、育ちの問題から、ほとんど自閉症に近い精神状態が、ずっと続きました。

 

 

 

それについては、下記を参考にしてください。

 

 

 

 

自己嫌悪でいつもイライラしているあなたへ。その原因と克服法を教えます

http://nayamimuyou.net/cocolo/自己嫌悪でいつもイライラしているあなたへ。そ.html

 

 

7 第七章 私が、自分自身の倫理を自分で構築するようになった理由

 

 

 

 

そんな私は、20歳のころに本格的に精神を病み、自殺を図りました。

 

 

 

そのときの私は、完全な無力・無能の精神破綻者でした。

 

 

 

しかしそれでも、私は生きていこうと思いました。

 

 

 

というのも、それほどまでに呪われた自分の人生ならば、自分がそこまで苦しまねばならない意味を知るまで、死ぬに死ねないと、思ったからです。

 

 

 

ところが、当時の私はほぼ精神障害者でしたので、ふつうに生きていっても、負け犬の人生にしかならない、と思っていました。

 

 

 

また当時の同世代の若者たちと比較しても、自分は病気を抱えていたりしたため、あらゆる面で劣っているのは、明白でした。

 

 

 

なので私は、ただ生きていけば、劣等感しか感じないであろうことは、充分に予想できました。

 

 

 

それだけでなく、病気から来る慢性的なうつ状態や皮膚のかゆみは、まともに感じていたら、当時の私は気が狂うくらい、つらかったのです。

 

 

 

ですからその時期の私は、現実に対し、「なにも感じるな。救いが来るまでは、自分を殺していろ」という態度でいたのです。

 

 

 

そこで私は、精神病の影響で、感性が麻痺している状態を、逆手に取って生きる方法を、選んだのです。

 

 

 

つまりただでさえ薄くなっている「感じるココロ」を殺し、修行者のような生き様を選んだということです。

 

 

 

さらにそのときの私は、あらゆる感性を排除し、ひたすら無心で学問や武術などに取り組もうと、決めました。

 

 

 

そうしてそうした生活を、自分のなかで何年も蓄積させ続けば、やがて自分のなかから「新しい自分」が生まれてくると、信じていました。

 

 

 

早速、実践を始めて4年後の24歳のとき、自分のなかからいろんなものが浮かんできて、楽しくて仕方なくなりました。

 

 

 

じつはそれはそれで、病気の一形態であり、勉強により脳に負担をかけたことが、後に凶と出るのですが、そのときは気づきませんでした。

 

 

 

ですがとりあえず私はそのとき、慢性的なうつ状態と、自殺願望からは、なんとか解放されたのです。

 

 

 

そうしてさらに、「自分を無にすることで」、闘病や学問・武術の研鑽を続けていると、私にはいろんな能力が身につくようになっていました。

 

 

 

さらにそれから十数年後、紆余曲折を経て私は、さしあたっての健康体を手に入れ、40歳のとき、ライターになれました。

 

 

 

くわえて当然、それまでの過程で学んだ多くのことは、ライターになってから、おおきく役立つこととなってくれました。

 

 

 

もちろん修行の渦中にあって、私は明確な主体性と自信を得たので、他人のことなど、とっくに気にならなくなっていました。

 

 

 

ですので、他人に対して劣等感を持つなど、私にはありえないこととなったのです。

 

 

 

 

 

第八章 劣等感を、「自分を成長させてくれるチャンス」ととらえ、忍耐強く、能力向上に努める

 

 

 

 

 

私が選んだこの方法は、一見、無謀に思え、「自分を殺す」ことから、あなたには非人間的なもののように感じるかもしれません。

 

 

 

しかしこのやり方は、日本的な「守破離」の概念にもとづいた、日本では古くから正統とされてきた方法論でも、あるのです。

 

 

 

むかしの日本人は、学者、芸術家、武術家、職人など、原則としてこの方法で技量を身につけてきたのです。

 

 

これについては、下記を参考にしてください。

 

 

 

 

低い自己肯定感を高める二つの鍛錬。無数の自己否定を重ねるか、根拠ゼロでも自尊感情を育てるか

http://nayamimuyou.net/cocolo/jikokoutei.html

 

4 第四章 旧来の日本型教育における長所

 

 

 

ですが、現代っ子であるあなたには、同じことができるとは、とてもじゃないが、思えません。

 

 

 

またあなたには、そんなことに没頭する時間も、ないはずでしょう。

 

 

 

よってこの教えは、「石の上にも三年」のように、なにかをなすとき、成果が出るまで、あきらめない姿勢として、励みにでも覚えておけば、充分です。

 

 

 

またこのやり方は、たとえ私がやったように、全人格を否定しなくても、少なくとも怠け心に打ち克つという意味では、参考になると思います。

 

 

 

とかく、現在のあなたになんらかの劣等感があるならば、それをあまりネガティブには、とらえないでもらいたいです。

 

 

 

そうではなく、以下のように肯定的に考えてみてください。

 

 

 

 

「自分を成長させてくれるチャンスが、来てくれた」。

 

 

「この感情を経て、努力することで、新しい自分が、きっと創られる」。

 

 

「この感情から、自分の本質を知り、自分自身を安定させる道を探し、それを完成させるよう実践を重ねることこそが、自分自身を活かす道だ」。

 

 

 

 

 

まとめ

 

 

 

 

 

人間であろうと動物であろうと、生きるためには絶えず、自分と他人を比較する必要があります。

 

 

 

とくに人間は、「共働」する必要から、他者と協力しながらも、共同体の内部では、彼らは「ライバル」へと変わります。

 

 

 

そこからどうしても、自分が比較する相手に敵わないと思えば、自然と劣等感が、自分の内側から湧いてきます。

 

 

 

そんなときに、「相手を自分レベルまで、引きずり降ろそう」と考えるのは、最悪です。

 

 

 

なぜならそうすることで、あなたの人格もまた、低下していくことになるからです。

 

 

 

ならばいっそのこと、「自分自身を、劣等感を感じている相手のレベルにまで、高めよう」と挑戦するのは、たいへんに生産的です。

 

 

 

それにくわえ、どうしても劣等感の対象にまで、自分の能力を上げられないと思うなら、以下の方法もあります。

 

 

 

それは、自分だけの道を探し、そこでなんらかの技能を身につけ、結果を出すことです。

 

 

 

そうすれば、ライバルたちはどうあれ、「俺には、これがある」と、自分に満足することができます。

 

 

 

さらに、「真に自己肯定感を高める」ことができたら、他人との小競り合いなど、どうでもよくなります。

 

 

 

とかく、劣等感を成長の糧とする生き方を選ぶなら、気長に「石の上にも三年」と、忍耐強く取り組んでください。

 

 

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自己紹介 ほんわか

みなさん、はじめまして。(*^^*)

ほんわかと申します。

私は現在は、雑誌ライターさんなどやってます。
成長過程での歪みにより、発達障害やアトピーを、50年近く患い、30年以上かけてほぼ完全に克服しました。

 

その過程で、多くの学問、健康法、整体術などを習得し、自分と同じような立場の人、100人ほどの相談に乗ってきました。

 

またネット上のものも含めると、これまでに私がアドバイスしてきた人は、500人以上に上ります。

 

ちなみにその成果として、下記のようなサイトも立ち上げています。(^^ゞ

 

よろず人生問題を、哲学的方法でズバリ解決!悩みよ、さらば
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