強すぎる承認欲求を満たす方法は、そのエネルギーをすべて、自分を成長させることに向けること

はじめに

 

 

 

 

最近はよく、「承認欲求」と言う言葉を耳にします。

(´・ω・`)

 

 

 

そしてそれはたいてい、あまり望ましくない意味で、です。

 

 

 

たとえば、「ツイッターをいつも更新している彼女は、承認欲求が強すぎる」とか、「やたらいい人アピールしているあの政治家は、よほど承認欲求を満たしたいのね」の、ようにです。

 

 

 

そこで私の意見ですが、まず「承認欲求」とは、だれもがふつうに持っている感情です。

 

 

また一般の人であれば、自分の社会的地位や経済力に見合った承認欲求を、持つのは当然といえるでしょう。

 

 

 

なぜならそれにより人は、社会において自分のいる位置が確認できるのですから。

 

 

 

この点は、アメリカの社会学者、マズローという人が、人間の持つ欲求を、基本的に5つに分け、その上から2番目として、承認欲求を挙げています。

https://studyhacker.net/maslow-hierarchy#:~:text=マズローの法則によれ,ようになるのです。

 

 

たしかに一般論においても、金銭欲が満たされた者は、次には社会的名誉を求める、という傾向があります。

 

 

 

たとえば経済界で成功した人が、企業経営などよりも給料自体は安い、国会議員を目指したりすることも、よくある話です。

 

 

 

このページでは、そうした承認欲求の正しい姿を明らかにし、あなたがどう、承認欲求とつき合っていけばいいのか、考察します。

 

 

 

お楽しみに。(*^^*)

 

 

 

 

 

第一章 幼少期の愛情不足がもたらす、ゆがんだ承認欲求

 

 

 

 

 

まず前述したように、人が社会的存在であるかぎり、人は現今における自分の社会的地位を確認するためにも、承認欲求を求めるのは、ごく自然な行為です。

 

 

 

ところが一方で、その人の社会的地位に見合わない、過大な承認欲求を求める人もいます。

 

 

 

それはたとえば、SNS で「いいね!」を際限なく欲しがる人。

 

 

 

あるいはすでに充分に売れているのに、キリがないほどの名声を求める芸能人など。

 

 

 

さらには、もともと美人のに、なぜか整形手術をくり返し、結果的に人間離れした容貌の持ち主となった女性。

 

 

 

または、犯罪を犯してまで自分が有名になることを望む通り魔等、です。

 

 

 

ところで私が見た限りでは、そうした人たちは例外なく、育った家庭に問題があるといえます。

 

 

 

もっとも典型的なのは、母親の歪んだ愛情と、父親の無関心を味あわされたというものです。

 

 

 

こうした家庭は、現在では「機能不全家族」と呼ばれ、むしろ社会の主流派ともなっている家族像です。

 

 

 

 

まず母親は、自分の親から子育てや躾を教わっていないので、子どもの育て方がわからない。

 

 

 

そのため、子どもにベッタリとなり、子どもに必要なものは、なんでも子どもの自発的行動に先がけてあたえてしまう。

 

 

 

また父親も同様、自分もまともに自分の父より、「社会の生き方」を教えられていないので、子どもにもそれを、当然に教えられない。

 

 

 

なにより自分は、仕事で忙しい。

 

 

 

そうして子どもは、世の中の泳ぎ方も知らず、自分の欲しいものを手に入れる方法もわからないまま、大人になってしまいます。

 

 

 

もしくは、両親から「条件付きの愛情」を、受けてきたか、ということも考えられます。

 

 

たとえば、「お前は○○大学へ入れ。そうしたら、愛してやらなくもない」といった態度で、育てられてきたような人です。

 

 

 

どちらにせよその人は、無力な幼少期から「ありのままの自分」を受け入れられず、認められなかったことには、変わりありません。

 

 

 

そしてその「ひずみ」は、その人が大人になって、自分で能動的になにかできるようになってから、現れてきます。

 

 

 

つまり、元来は親から得られるべきだった「関心」や、「愛情」、「ほめ言葉」を、不特定多数の人から得ようとするのです。

 

 

 

もしくは逆に、極度に消極的となり、「人から認めてもらいたい」という欲求はそのままに、引きこもりになるケースもあります。

 

 

 

この場合は、インターネット掲示板における、「荒らし」などになる場合が多いです。

 

 

 

 

私は長く、「5ちゃんねる(むかしは 2ちゃんねる)」をはじめとする掲示板を見てきたので、こうした人物の言動は、私にはすっかりおなじみです。

 

 

 

まず彼らは自分自身を、「だれかの悪を告発する、正義の代弁者」と位置づけます。

 

 

 

その上で、特定の人物や団体を、誹謗中傷に近いカタチで批判します。

 

 

 

さらに彼らは、「自分は絶対的正義なのだから、その正義を遂行するためには、多少の手段の逸脱は、許される」と、当然のように考えます。

 

 

 

そのため、自分の共鳴者が多数いるように工作する、いわゆる「自作自演」を行ったり、バレバレのウソを言ったりするのは、日常茶飯事です。

 

 

 

そうしてついには、荒らし行為までして、掲示板の他の利用者に迷惑をかけるのですが、それでも彼らは、自分たちの正義を、信じて疑いません。

 

 

 

むしろ、そんな自分を批判する人とは、自分が糾弾している人同様の悪魔と、二元論的な善悪観をもって、攻撃の対象とします。

 

 

 

なぜなら、自分は神に等しい絶対正義なのだから、どんなことがあっても、自分が責められるということは、ありえないと考えるからです。

 

 

 

なので当然、どんな事情があろうと、自分に根本的な原因があろうと、その人にとっては、自分を批判する人は、悪魔なのです。

 

 

 

そうしてそんな悪魔を退治する正義の自分を、多くの人に見てもらいたいという承認欲求が、彼らにはあります。

 

 

 

また彼らは、自分の部屋から一歩も出ず、ネットからも自分に都合のいい情報しか見ないので、当然、自分が悪いことをしているという自覚もありません。

 

 

 

よって、彼らは悪魔なのだから、どんな罰をくわえても許されると考え、ついには犯罪的書き込みまで行い、警察に逮捕されてしまうのが、こうした人たちです。

 

 

 

ではなぜ、そういうことが起こるのでしょう?

 

 

 

そもそも人間とは、物心ついたとき最初に愛情をあたえられなければ、「この世界とは、みなで仲良く暮らせば、幸せなところ」ということが、理解できません。

 

 

 

またもちろん、満たされなかった愛情は、放っておいたら、いつかそのうち、勝手に解消されるということも、ありえません。

 

 

 

むしろ本人のなかでは、そうした「愛情の不在」が肥大化され、多くの場合、その人が大人になってから、望ましくないカタチで現出します。

 

 

 

 

 

第二章 大河小説『エデンの東』に見る、「愛されなかった子どもの末路」

 

 

 

 

 

さて、私が上記章で述べたことを、20世紀の名作文学『エデンの東』から引用したいと思います。

 

https://novel24.com/east-of-eden-s8495.html

 

 

 

まず映画『エデンの東』は、ジェームス・ディーンの事実上のデビュー作として、60年以上経った現在でも、映画史に不朽の名作として遺っています。

 

 

 

またちなみにですが、その際に使われた、レオナルド・ローゼンマン作曲の主題歌も、映画音楽史上ナンバーワンとも呼ばれています。

 

 

 

さらにちなみにですがこの曲は、ヴィクター・ヤング・オーケストラ演奏のものが、いちばん有名です。

 

 

私は若いころ、この音楽に完全に魅了され、毎日、何十回と聴いていた時期がありました。

 

 

 

しかもそうした日々は、10年以上、続きました。

 

 

 

ですので私は、この曲はどう少なく見積もっても、これまで1万回以上は、聴いています。

 

 

 

さて、『エデンの東』の物語ですが、アメリカの文豪、ジョン・スタインベックが記した原作の小説は日本語版では、文庫本4冊におよぶ長編です。

 

 

 

そして、映画版はその長大な原作のなかから、全体の3分の1を、重要な部分だけ抽出したものです。

 

 

 

したがって、映画版と原作とでは、やや趣きが異なっています。

 

 

 

映画版では、一家族のかなでの、親子や兄弟の葛藤がテーマとなっています。

 

 

 

ところが原作は、2つの家庭の家族たちがひっきりなしに登場し、家族とは、愛とは、性とは、人生とはについて、読者に考えさせるストーリーです。

 

 

 

そのなかで、その一方の家族、トラスク家に召使いとして雇われている、知性あふれる中国人、リーが、以下のようなことを言っています。

 

 

 

これは、『旧約聖書』の『創世記』における、人類初の兄弟である、カインとアベルについてです。

 

 

 

ここで少し説明を入れますと、カインは神に、自分の畑から取れた作物を、アベルは羊を、供え物として捧げます。

 

 

 

ところが神は、カインのものは受け取らず、アベルのもののみを受け入れました。

 

 

 

すると嫉妬に狂ったカインは、怒りのままにアベルを殺してしまいます。

 

http://mementmori-art.com/archives/13574988.html

 

 

そのためカインは、神の前から去らねばならなくなるという物語です。

 

 

 

やや長いですが、引用します。

 

 

 

 

「この物語(カインとアベルの物語 ほんわかより)は、すべての人間の物語であるからこそ、世界中で一番よく知られた物語になっているのだとわたしは思います。
わたしは、これは人間の魂を象徴する物語だと思うのですよ。……(後略)。

 

「……(中略)子供がもつことができる一番大きな恐怖は、自分が愛されないということですし、愛を拒否されるということは、子供がひどく恐れる地獄のようなものです。
わたしは、世界中のどんな人間でも、程度の差はあれ、拒否される気持ちを味わったことがあると思いますよ。
怒りが起こると、その拒否に対する復讐としての何らかの種類の犯罪が起こっています。そして犯罪が起こると罪が生じるのです。
―そしてこれが人類の物語なんですよ。
わたしが思うに、もし拒否ということを完全になくしてしまうことができるならば、人類は今のようなものにはならないでしょう。
たぶん、頭の狂った人間は今よりも少なくなるでしょう。
きっと牢獄もたくさんはないことになるにちがいありません。……(後略)」

 

 

「……(中略)ある子供は自分が切望している愛を拒否されると、猫を蹴とばして、そして自分のその秘密の罪をかくします。また別の子供は、金の力で人から愛されるように盗みをします。
そしてまた別の子供は世界を征服します。……(後略)」

 

 

ハヤカワ文庫『エデンの東』 ジョン・スタインベック著、大橋健三郎 訳 第二巻より引用。

 

 

 

上記の引用の最後にあるように、現実にも20世紀に現れた独裁者の多くが、幼少期に父親からの愛情を受けずに育っています。

 

 

 

その代表例が、ドイツのヒトラーと、ソ連のスターリンです。

 

 

 

 

 

 

ヒトラーは幼少期に父親から虐待され、自分の望む進路を否定されました。

 

 

 

またスターリンも、幼少期に実父より、肉体的な虐待を受けています。

 

 

 

くわえてですが、そのように育てられた人物は、自分が親になっても、自分が親にされたようにしか、子どもを教育できません。

 

 

 

その例として、スターリンの息子は、自分が一向に父親に認めらないことに絶望し、ある日、拳銃で自殺を図りますが、たまたま助かりました。

 

 

 

その際にスターリンが息子にかけた言葉は、「お前は、自分のこめかみにも、弾丸を当てられないのか」でした。

 

 

 

日本でも同様のケースとして、オウム真理教教祖の麻原彰晃や、2008年における秋葉原の連続通り魔、加藤智大などが挙げられます。

 

 

 

彼らは、自分が幼少期に愛されなかった代償として、本当に世界を征服しようとするのです。

 

 

 

そして失礼ながら、「あなた」も程度の違いはあるにせよ、彼らと共通した部分があるのでしょう。

 

 

 

なぜなら、あなたはこんなサイトを見ていらっしゃるのですから。(^^ゞ

 

 

 

さらにもちろん、「私」も、そうです。

 

 

 

私の簡単な生い立ちを知りたければ、下記を参考にしてください。

 

 

 

 

自己嫌悪でいつもイライラしているあなたへ。その原因と克服法を教えます

http://nayamimuyou.net/cocolo/自己嫌悪でいつもイライラしているあなたへ。そ.html

 

 

第一章から第七章まで

 

 

 

 

第三章 「自分・再創造計画」の開始と、その一時的な挫折

 

 

 

私は、自分自身では認めまいと、ずっと思っていましたが、小学生のときから、父の愛に飢えていました。

 

 

 

その後、心身にわたり大病をえましたが、その原因は、父親の愛情不足と、母親のゆがんだ愛が原因でした。

 

 

 

ですから私は、前章の引用の最後にあるように、20歳のときに「自分・再創造計画」の実践に入ったのです。

 

 

 

私は病気の身とココロを抱えながら、とかく多くの学問を、独学しました。

 

 

 

ところが私は、その際にアタマと栄養ばかりに気を取られ、肉体の鍛錬がややおろそかになったため、28歳のとき体調を崩して、入院するはめになりました。

 

 

 

その病院は、私のような育ち方をした大人や子どもに特有の病気を、あつかう専門医院でした。

 

 

 

そこで私は、若いが、おそろしく優秀な女性のケースワーカーさんに、自分の事情を話すと、こう言われたのです。

 

 

「ほんわかさん、でもそれは、一人で生きていくというのが、前提の生き方じゃないの?」

 

 

これにより私は、「ハッ」としました。

 

 

 

ちなみに私はこれまで、直接、話をしたことがある女性で、「この人、スゴイ」と思ったのは、3人だけです。

 

 

 

そのケースワーカーさんは、そのなかでも、いまでも私のなかで一番です。

 

 

 

つまり、私がこれまでに実際に会った女性のなかでは、もっともスゴイ人です。

 

 

 

とかく、口調や表現はおだやで、見た目は少し活発系のお姉さんですが、とかく物事や人間心理に対する洞察力が、ハンパないのです。

 

 

 

こんな人、一流の精神科医のなかにも、ちょっといません。

 

 

 

いずれにせよ、それにより、私は自分の生き方がやや、一人よがりだということを悟りました。

 

 

 

しかしそれでも、自分ではもう、その生き方を変えることは、できませんでした。

 

 

 

というのも、その当時には私がその後、自分で開拓すべき道は、ほぼ決まっており、その後の計画ももう、できあがっていたからです。

 

 

 

もしそれを諦めるとなると、私は20歳からの自分の生き方を、すべて否定しなくてはならなくなります。

 

 

 

それだけは、当時の私には、どうしてもできないことでした。

 

 

 

よって退院後も、東京の別の病院に毎週、出張に来ていた私の主治医から、「早く、就職しろ!」と、顔を合わすたびに言われました。

 

 

 

ですので私は、その病院のなかで、主治医を替えることにしました。

 

 

 

すると、新しい私の主治医は、いまでもお世話になっていますが、「ああしろ、こうしろ」と、ガミガミ言わない人でした。

 

 

 

おかげで私は、自分の実践に心置きなく没頭できたわけです。(^^ゞ

 

 

 

 

 

第四章 ネット掲示板への書き込みが、病みつきになった31歳のとき

 

 

 

そうして3年ほどすぎ、私が31歳になったとき、自分で立てた計画の中盤まで、実践が終了しました。

 

 

 

しかしそのとき、ある日、とんでもないことが、突如として起こったのです。

 

 

 

まず私は、そのときまではインターネットなどは、ほとんど見ることのない人間でした。

 

 

ところがある日、なにげなく掲示板「2ちゃんねる(現 5ちゃんねる)」を覗いたとき、唐突に「なにか書き込みたい!」という衝動に駆られたのです。

 

 

 

それは、なんということもない歴史系のサイトでした。

 

 

 

ところが私は、そこに並んでいる文字の列を見て、「どうしても、自分の意見が書きたい!」と、衝撃的に思ったのです。

 

 

 

そこでたまらず私は、自分の考えを書き込み、自分に返されたレスに対し、病的な速さで、どんどん返信しました。

 

 

 

そのときは、手練れの論者が現れ、私は論破されたカタチとなり、とりあえず悔しい気持ちとともに撤退しました。

 

 

 

しかし2ちゃんへの書き込みは抑えられずに、私はその後、どんどんといろんなスレッドに書き込みを始めました。

 

 

 

そればかりか、私の脳裏には次から次へとアイデアが浮かぶので、自分からせっせとスレッドを立て続けないと、気がすまなくなりました。

 

https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1402/19/news151.html

 

 

 

分野は、歴史や哲学、文学等の学問板がメインでした。

 

 

 

そうして衝動のまま、毎日、書き込みを行うので、私にとって2ちゃんは、完全に生活の一部となったのです。

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第五章 2ちゃんとの適切な距離感を、保てるようになるまで

 

 

 

 

そのように2ちゃんに親しみ、余裕が出てくると私は、自分の書き込みに対する反省も生まれ、よく考えてから発言することが、できるようになりました。

 

 

 

そうして私は、数年間は2ちゃんで他者との議論や論争に、明け暮れました。

 

 

 

そうこうしているうちに、私には、いわゆる「煽り」への対応力もつき、他者を論破する手順も、覚えていきました。

 

 

 

私が2ちゃんなしには、生活できないくらいに、2ちゃんにのめり込んでいたのは、私が34歳くらいのころまでです。

 

 

 

それから、40歳くらいまでは落ち着きを得て、自分に必要な情報だけを得たりすることが可能となりました。

 

 

 

あるいは自分しか知らないことを質問者に教えたりと、2ちゃんを適切に活用することが、できるようになったのです。

 

 

 

現在ではほとんど、2ちゃん(現在は5ちゃん)自体も見ることが少なくなってきました。

 

 

 

2ちゃんでなにかを見たり、書き込んだりするのは、特定の情報に対してのみとなりました。

 

 

 

しかしいまから考えても、2ちゃんで得たものは、大きかったです。

 

 

 

 

 

第六章 承認欲求の負のエネルギーを、なにかをインプットするチカラに変える

 

 

 

 

 

2ちゃんを始めるまでの私は、哲学者ヘーゲルの著作や、『聖書』など、いわゆる大著ばかりを読んでいました。

 

 

 

しかし2ちゃんでの書き込みをつうじて、私は議論や論争の作法を、自己流ながらに学びました。

 

 

 

そこで間違いなく言えることは、もし私が本を読んだだけで、2ちゃんをやらなければ、私には現在のディベート能力はつかなかっただろう、ということです。

 

 

 

現在の私は、たとえば知識の思い違いをネチネチ攻めてくる者や、最初から屁理屈しか言わない者は別として、まともなものなら、たいていの論争には勝てます。

 

 

 

ただそれは、よほど自分の損得がかかったものについてのみであって、そもそも私は人との言い争い自体が、好きではありません。

 

 

 

よって、その論争自体も滅多にすることは、ありませんが。

 

 

 

さて、そうした私の過去から言えることは、以下の点です。

 

 

 

当時の私のように、適正なインプットをずっと続けていると、その蓄積がやがてある日、「アウトプットしたい」という欲求につながることもある、ということです。

 

 

 

私はそれまでは、自分の考えは自分の胸の内にしまっておきました。

 

 

 

自分の考えを、ノートにまとめるということさえ、私はしていませんでした。

 

 

 

ところがいつからか、「自分の考えを、他人に知ってほしい」という承認欲求が芽生えます。

 

 

 

さらにその気持ちは、自分でも気づかぬうちに、自分のなかで大きくなっていくのです。

 

 

 

そしてその衝動は、当初はまるでマグマのようなカタマリにすぎず、熱くて重いが、まったく細かい体系をなしていません。

 

 

 

しかしとかく、自分のココロが自分に命ずるように、それをどんどんと表出していきます。

 

 

 

そうしてそれを、さらに出していき、その都度、自分の発言は正しかったかと反省をくわえれば、考えも筋道だってきます。

 

 

 

そのように、自分のなかに言い知れぬ承認欲求が、もしあなたのなかにあるならば、それをあるがまま、小出しにしないほうが、いい場合があります。

 

 

 

そうではなく、自分の承認欲求とは、何にもとづいているものなのか、よく考え、それについての正当な研鑽を、計画的に積むのは、いいことです。

 

 

 

私の場合は、一種の現実逃避的な修行生活からの勉強が、ある日突然、自分のなかで意味をなし、それを外部に表出する衝動となりました。

 

 

 

また、それを他人に対して表現するにあたり、適度の表現力や文章力もつきました。

 

 

 

その結果として、私はライターにもなれたし、あなたがいま読んでいるブログも書けるようになれたのです。

 

 

 

いまでは私は、こうして自分の過去をブログに書くことで、かつての自分とおなじ悩みを持つあなたの役に、少しでも立とうとしています。

 

 

 

また近い将来には、私は自分が勉強してきた歴史学、哲学、宗教学等における自分なりの発見を、日本語と英語でネット上から発表しようと考えています。

 

 

 

さらにその上、言語を問わず、書物も多く出そうと思っています。

 

 

 

ですから、私からあなたへアドバイスできるのは、以下の点です。

 

 

 

もしあなたが現在、過去に親から愛されなかった、あるいは歪んだ愛を押しつけられた結果、なんらかの承認欲求が生じたとします。

 

 

 

ならば、その負のエネルギーを、ただその場で解放するのではなく、逆になにかのチカラをインプットするために使うのです。

 

 

 

その内容はもちろん、あなたの関心領域に属するもので、かまいません。

 

 

 

場合によっては、心理学や文学、哲学などが望ましいかもしれません。

 

 

 

 

これはあらかじめ予定を立て、計画的に行っていけばいいでしょう。

 

 

 

するとそれはいつか、あなたのなかで熟成され、意味のある内容になっていくと思います。

 

 

 

というのも、そのインプットされた内容とあなたの承認欲求が、あなたのなかでブレンドされ、それは独創的にして普遍的な思考となるからです。

 

 

 

つまりは、強すぎる承認欲求を抑え、そのエネルギーを学問等に向ければ、あなたは将来、偉大な学者や思想家になれるかもしれないのです。

 

 

 

というのも、たとえ結果的に報われなくても、「自分が発見した真理を、人にわかってもらおう」とする情熱ほど、科学や哲学、学問を発展させたものは、ないからです。

 

 

 

またこれはもちろん、学問的なものに限定しなくても、大丈夫です。

 

 

 

たとえば、マネジメントを学び、将来は経営者を目指す。

 

 

 

あるいは、政治学を勉強し、ゆくゆくは政治家を志す等でも、いいでしょう。

 

 

 

さらには、絵のデッサンをくり返し、芸術家を目指すのもアリです。

 

 

 

なかでも一番のオススメは、武術を習うことです。

 

 

 

武術における技術は、英語や数学等の知識とは異なり、直接に自分のカラダに身につきます。

 

 

 

そして武技の上達とは、「あなたの意志」においてなされたものなので、これ以上にあなたに自信をもたらすものは、またとないと思います。

 

 

 

もっとも武術のなかでも、あまりにも厳しすぎるものは、かえって自信喪失しかねないので、あまりオススメできませんが……。

 

 

 

しかし最近の武術の道場や、ボクシングのジムなどは、この不況のなかにあるため、どこも弟子や練習生を確保するのに、必死です。

 

 

 

なので、女性や体力のない人向きのコースなども、たいていの道場で用意されています。

 

 

 

あなたはそのなかで、ご自分の時間を確保し、ムリのない範囲内で、ご自分に合ったものを始めてみればいいと思います。

 

 

 

さて、数ある武術や格闘技のなかで、私がもっともあなたに推せるものは、伝統派や古流の空手です。

 

 

 

これらは、技の型や呼吸法を重視するため、健康にもいいですし、技がいつまでもカラダに残ります。

 

 

 

これがボクシングとかですと、あまり基本技は重視しないため、止めたと同時に技も消えるということもあります。

 

 

 

さらに柔道などは、そもそも体力が必要ですし、合気道は、出来レースでの練習ばかりなので、暴漢に襲われたときなどの護身術とは、なりがたいです。

 

 

 

また剣道は、日常的に竹刀を持ち歩くわけにはいかず、さらに剣がともなわない徒手空拳の状態では、なにもできないという欠点があります。

 

 

 

そうした点から、空手は技が五体に宿り、護身にも使え、体力がなくても取り組めるので、これをオススメする次第です。

 

 

 

私も空手を数年やりましたが、そこで学んだ技は、まだ私の肉体に染みついています。

 

 

 

また、「いつでも自分は闘える」という気持ちが、日常を生きる自信にもなっています。

 

 

 

さて、あなたはなにかを学び、自分が、なにかを表現しなければ死ぬと思うくらいになったとき、あなたはアウトプットを開始すればいいのです。

 

 

 

もちろん、最初のうちは表現力や文章力は身についていないので、「自分のいいたいこと」が、言い表せないということも、あるでしょう。

 

 

 

あるいはスポーツや武術なら、最初はもちろん、自分の技は相手には当たりません。

 

 

 

また当然に、経営者や政治家になりたいと思っても、最初はわからないことだらけでしょう。

 

 

 

ですがそうした技術や知識は、アウトプットする段階で、少しずつ身につけていけば、いいのです。

 

 

 

それができるようになれば、あなたはご自分の過去における「愛の不在」の苦しみを、利息をつけたカタチで、「この世での栄光」に転換することが、可能となります。

 

 

 

ただしこの場合、あなたのそうした能力は、「愛の不在」の代替物である点に、注意する必要がありますが。

 

 

 

というのも、前述のヒトラー、スターリン、麻原彰晃、秋葉原通り魔たちはみな、行きすぎて自滅したからです。

 

 

 

よってあなたは、あくまでご自分の「愛情の欠乏」から来るエネルギーを、自分のためにのみ使わないように、心がけておく必要があります。

 

 

 

そうではなくあなたはそれを、かつてのご自分と同様の苦しみを味わっている人を救うため、そうして得たチカラを使うのだ、と自覚しておくのです。

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第七章 受動性を能動性に変換し、小さなことで承認欲求を満たす

 

 

 

 

 

またもちろん、あなたご自身が望まないのなら、そこまでする必要は、まったくありません。

 

 

 

とりあえず、あなたがなんらかの承認欲求に苦しめられているのなら、それを受動的なものから、能動的なものに変換するだけで、あなたは救われます。

 

 

 

つまり、ご自分の「愛されなかった」という気持ちを、「自ら、他者を愛する」というものに、意識的に変えていけば、いいのです。

 

 

 

私の場合、私を救ったのは、いまから15年も前に、私の家の近所で飼われていた、ゴールデンレトリバーでした。

 

 

 

30代のころ、そのゴールデンにはじめて会ったとき、一目惚れした私は、毎日のように「彼女」に会いに行っていました。

 

 

 

彼女の飼い主である老夫婦も、最初こそは私を警戒していましたが、すぐに私に下心がないことがわかると、私を歓迎してくれるようになりました。

 

 

 

またそのゴールデンはやがて、私が家の前を通るだけで、門扉の向こう側から、私をお出迎えしてくれるようになったのです。

 

 

 

それも、必死に立ち上がって前足をバタつかせての、大歓迎ぶりです。(*´ω`)

 

 

そうしてゴールデンとの友情を深めるにつれ、私はじょじょに、以下のことが実感できるようになりました。

 

 

「自分の愛には、価値がある」。

 

「自分の愛は、だれかを幸せにするチカラがある」。

 

 

 

 

ですから可能ならばあなたも、ペットを飼ってみればいいです。

 

 

 

しかしあなたが、それができない環境にいるならば、少しずつ人に親切にすることを、学んでいけばいいと思います。

 

 

 

人のおせっかい、ありがた迷惑にならない範囲であなたは、可能なかぎり、他人や困った人に親切にするのです。

 

 

 

 

そうした自分の行為で、少しでも人に感謝されることがあれば、その喜びを噛みしめましょう。

 

 

 

本当にそれは、簡単なことでいいのです。

 

 

 

たとえば、同僚たちのために朝少しだけ早く家を出て、仕事の段取りをしておいてやる。

 

 

自宅のまわりを、いつもキレイにしておく。

 

 

 

あるいは、身近な人に、つねに親切にしてやる等です。

 

 

 

そうしてあなたは、ご自分なりに承認欲求を満たしていけば、いいでしょう。

 

 

 

またそのように、あなたはぜひ、あなたのまわりにいる人を一人でも多く、幸せにしてあげることを、考えてください。

 

 

 

さらにそれより重要なことは、あなたが結婚し、人の親になったときです。

 

 

 

そのときにはぜひ、ご自分のお子さんを大切にしてやり、あなたの代で「親子相互無理解の因果」を、断ち切るつもりでいてください。

 

 

 

 

 

第八章 「人に認められる存在」から「人を認める存在」への変換を

 

 

 

 

 

そもそも承認欲求とは基本的に、幼少期においては受動的なものであっても、それは大人になったとき、社会に働きかける能力を得るため、存在します。

 

 

 

つまり、子どもにとっての承認欲求とは、以下のものなのです。

 

 

 

それは、愛情をつうじて、両親をはじめとする大人たちから、「生きる喜び」と「生きる意味」、そして「生きる方法」を、教えてもらいたいという願望。

 

 

 

ところが、あなたが現在、幼少期における愛情不足から来る承認欲求に苦しんでいたとしても、人から愛され、感謝されることは、可能です。

 

 

 

そしてそれができれば、もちろんあなたの承認欲求は、あなたの行為と他人からの感謝により、満たされるでしょう。

 

 

 

そもそも人間とは、全生物のなかで唯一、「理性」を持ち、自分の感情をコントロールできる存在です。

 

 

 

ですから、あなたも人間であれば、自分の内部における満たされなさを、外部への働きかけで、合理的に埋めることは、充分に可能なはずです。

 

 

 

そうして、他人への親切を自然に行えるようになれば、そのときにはあなたの過剰な承認欲求は消えていくでしょう。

 

 

 

そしてただ「人のために、なにかをしてやりたい」という気持ちだけが、残ると思います。

 

 

 

するとあなたは、まわりから感謝され、自分の幸せを感じられる存在となれます。

 

 

 

とかくあなたが承認欲求に苦しんでいるなら、すぐにそこから脱出し、救われる道は、一つです。

 

 

 

なにおいても、その「負のエネルギー」を、「人のために、自分自身を高めること」に向けることです。

 

 

 

その結果、あなたは社会的地位とは関係なく、現在のご自分にふさわしい承認欲求を手に入れることが、できるはずです。

 

 

 

またそこからさらに、「自分の承認欲求が満たされた」と確信できたら、次のステージに行けば、いいでしょう。

 

 

 

そのときのあなたが、ご自身の胸に抱く「自分の本当の夢」を、社会で実現することを、目指すのです。

 

 

 

そのときあなたが、つねに自覚しておくべき点は、ただ一つです。

 

 

 

それは、「自分が人から認められたいという欲求」を、「自分が他人の存在を認めるチカラ」へと変換させることです。

 

 

 

それができたときあなたは、社会的成功も個人的幸福も両方、手に入れることが、できているでしょう。

 

 

 

 

 

 

まとめ

 

 

 

まず承認欲求とは、基本的にだれもが持っている感情です。

 

 

 

しかしそれが過ぎると、人は自分の気持ちを持て余し、場合によっては犯罪に走ったりもします。

 

 

 

原則として過度の承認欲求とは、親の愛情がなかったか、あるいは歪んだ愛情を受けた子どもが、大人になってから抱いてしまうものです。

 

 

 

なぜなら彼らは、幼少期に親からあたえられなかった愛情を、不特定多数の人から得ようとしてしまうからです。

 

 

 

それを克服する道は、いくつかあります。

 

 

 

まずは、「表出したい」という思いを抑え、あえて有益な情報や学問等のインプットに励むこと。

 

 

 

これにより、機が熟すれば、そうした内容は、その人のなかで独自にして正当な思考となって現れます。

 

 

 

その内実を表現することを、仕事にすること。

 

 

 

次に、「他人に愛されたい」という受動性を、あえて「人を愛する」という能動性に変換すること。

 

 

 

そうして人からの感謝や好意を、しみじみと吟味することです。

 

 

 

さらにムシャクシャする気持ちを、自分自身を高めるエネルギーに替えて、そこから他人の役に立つようにすれば、いいのです。

 

 

 

するとあなたは、健全な気持ちで、「本当の自分の夢」を、社会で実現したいと思うようになれるでしょう。

 

 

 

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自己紹介 ほんわか

みなさん、はじめまして。(*^^*)

ほんわかと申します。

私は現在は、雑誌ライターさんなどやってます。
成長過程での歪みにより、発達障害やアトピーを、50年近く患い、30年以上かけてほぼ完全に克服しました。

 

その過程で、多くの学問、健康法、整体術などを習得し、自分と同じような立場の人、100人ほどの相談に乗ってきました。

 

またネット上のものも含めると、これまでに私がアドバイスしてきた人は、500人以上に上ります。

 

ちなみにその成果として、下記のようなサイトも立ち上げています。(^^ゞ

 

よろず人生問題を、哲学的方法でズバリ解決!悩みよ、さらば
http://jinseitetsugaku.com/

 

この経験を、少しでも多くの人に役立ててもらおうと思い、当サイトを立てた次第です。

 

これからの厳しい時代、かつての私以上に弱い人でも生き残れる方法論を、どんどん発信していくつもりです。

 

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