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さて私は下記ページにおいて、「幸せ」を哲学的に定義してみました。
「幸せ」の哲学的定義とは、「個人の社会的究極目標」。現代青年はいかにして、幸せを手に入れるか
だれもが上記ページのように、幸せになれれば、問題はありません。
しかし実際には、そうはいきません。
というのも、世の中には競争があるため、万人が自分の望むものを手に入れられるとは、かぎらないからです。
また悲しいですが、現代では人間の幼少期に必須の「愛情」を得られないまま、大人になってしまう人も多いです。
こうした人は、どうしても「愛」がわからないため、「愛」を得ることがむずかしくなってきます。
よってここでは、「幸せをつかめなかった人」が送る、3つの生き方についてお話しします。
さて、ところで現実の物事とは、すべて社会や個人の期待するようには、いきません。
というのは、たとえどんな社会システムであっても、そこにすべての人が、適応できるとはかぎらないからです。
端的に述べれば、どうしても「『幸せ』を自力でつかめる強い青年」になることができない人も、実際には多数、生まれてしまうということもあります。
その原因は、現代日本にあってはほぼ例外なく、家庭環境に起因します。
それはどういうことかと申せば、現代日本の急激な近代化に原因があります。
1960年代、高度経済成長期以前には存在していた、日本が世界に誇る、すばらしい育児環境が急速に失われたのです。
この点については、下記ページを、参考にしてください。
あなたがいつも自己嫌悪でイライラしているのは、わが国における社会・家庭環境の変化と愛情不足のため
そうしたわけで、現在のわが国では強く生きていく上で必要な愛情を、充分に受けないまま青年になってしまった人が、現在では多数いるのです。
いや、むしろいまでは、そうした青年のほうが多数派を占めるかもしれません。
なぜなら現代日本では、社会が各家庭に求める子どもの教育を果たせない家庭が、全体の8割に上るといわれているからでです。
ちなみにこれは、「機能不全家族」と呼ばれています。
またこの現象は、若いころの私が強烈な影響を受けて,地獄の苦しみを味わった原因でもあります。
さらに、いまこの記事を読んでいるあなたにも、強く該当することです。
正しい愛を知らず、歪んだ愛を押しつけられ育った青年には、もちろん社会の荒波を泳ぐ体力はありません。
また当然に、本人も慢性的に、理由もなくイライラしていたり、自信のなさに怯えていたりもします。
そうして多くの場合、そうした青年は自己存在や自分自身の人生を持てあまし、まともな社会人としての幸せが得られません。
なぜなら当人たちに「愛」がわからないのですから、当然に「人から愛される」ということもないからです。
ですからあなたをふくむ彼らは、もちろん自分の幸せを探すべき青年期にも、それを見つけられず、大人になっても不幸なままです。
失礼ですが、それは、これからなにもしなかった場合のあなたの10年後、20年後の姿ともいえます。
ですが人間は、動物と異なり、自由意志と知恵をもった存在です。
よって、そうした「社会不適応者」ともいうべき人たちにも、なんとか生きていく術はあります。
その点を、見ていきたいと思います。
まず、幸福とは感情に安定と安心をもたらすものだということは、私は下記ページでも述べました。
「幸せ」の哲学的定義とは、「個人の社会的究極目標」。現代青年はいかにして、幸せを手に入れるか
それに反し、感覚的快楽というものは、刺激的で強力で、中毒性があります。
さらにはそのため、感覚的快楽は、人により強い刺激を求めさせ、エスカレートしていきます。
これは麻薬中毒者などを思い浮かべてみれば、すぐに理解できます。
彼らは感情の空洞を、感覚の強烈さにより、代替させようとしているのです。
麻薬にかぎらず、酒でもギャンブルでも性交渉でも、同様のことがいえます。
もしあなたが幸せを見出せないなら、たしかにそうしたものを享受し続けるという、生き方の選択肢も存在します。
ですがこの方法だと、ハマればハマるほどに幸せから遠ざかり、最後は破滅しかないのは、容易に理解できます。
次にそうした人たちが目指す生き方は、富や名声をひたすら追い求め、自分の承認欲求を際限なく満たすやり方です。
これは、すでに巨万の富があるのに、どこまでも金儲けに固執する実業家。
あるいは、すでに安定した人気や収入があるのに、整形手術をくり返したり、過激な歌を発表し続けたりする、映画スターやロックスターなどが挙げられます。
彼らはたしかに、富や名声はある。
しかしそれは、一度得てしまえば簡単に消費されてしまうので、またさらなる富と名声を求め、彼らは暴走するのです。
そしてその末路は、変死、急死、若死になど、幸せとはほど遠いものだと、わかります。
またさらに、そうした幼少期に「生きる喜び」を教えられなかった人の選択肢は、まだあります。
それは社会を捨てる、すなわちホームレスやその日暮らしになる道です。
これは一般の人からは、みじめで軽蔑や憐みをもって見られる生き方です。
しかしひょっとしたらですが、本人にとってみれば、考えようによっては、これは幸福なあり方なのかもしれません。
というのは、そういう人たちは一般社会での面倒ごとを嫌い、そこで「幸せになる」、「よく生きる」意志を捨てた者です。
意思を持たない人間は、性質が植物や物質に近くなり、主観的には不幸を不幸と感じなくなります。
いわば、ココロが凍りついた状態となるからです。
よって当然に、「愛情のぬくもり」も、感じられませんが。
さらにこれは、その上になることもない代わりに、それ以下もない状態で、ある意味では安定しています。
ですので、可能ならばそのまま死ぬまで、自我を持たず、自分を人間と思わなければ、もしかして本人は幸せかもしれないというのです。
さらに、たとえ定職を持ったとしても、ひたすらなにも考えずに「ボー」と、毎日を過ごす生き方、というのもあります。
これは、私が若いころにバイトをしていた、家電量販店の上司が、そのタイプでした。
彼はいつも、仕方なく仕事をしており、根本的にやる気というものがありませんでした。
彼は、当時流行っていた「モーニング娘。」の大ファンで、「モー娘。」だけが楽しみで生きているような人でした。
そうして自分の人生や仕事になにも期待していないため、部下やバイトにも、まったく甘かったのです。
彼の部下であった私にはありがたい存在でしたが、彼自身はそれが幸せだったかどうかは、わかりません。
というのは、家電量販店とは基本的にどこも、体育会系的であり、多くがブラックです。
そんなところでやる気も見せず仕事をしていたのですから、彼は毎日、後から入った後輩に叱り続けられていました。
またもちろん、彼は出世で大きく同僚に遅れ、他の社員からも軽んじられていました。
そんな毎日は、針のむしろだと当時の私は思いましたが、もはや彼は、自分の感性を殺しすぎており、もうなにも感じなくなっていたのかもしれません。
当時の私は、そんな忍耐力があるなら、そのチカラを自分の人生を改善させる方向に使えば、どれだけいいか、と思ったものです。
ですがもしかして彼には、その状態は完全に慣れっこになっていたのかもしれません。
ですからとくに意識しなくても、「バカにされて、つらい、悲しい、悔しい」とは、感じなくなっていたとも、考えられます。
もちろんあなたも、お望みならそんな生き方は、いますぐにでも可能です。
ですがあなたは、こんなページを見ている以上、そんな人生は絶対にイヤ、というより、そうなるのが怖いでしょう。
またこれからますます従業員の雇用が厳しくなる世の中で、こうした生き方がいつまで可能なのかは、予想がつきません。
ですので私はここで、とりあえず社会とは距離を取り、孤独でありながらも、生きがいのある生き方を、ここでご紹介します。
それは、これまで述べた、「人が一般的に幸せになる、2つの道」、
1,自分の専門を持ち、それを定職としながら、社会に根を下ろす。
2.愛する家族や友人を持ち、そのつながりのなかで、安定して生きる。
の、どちらでもありません。
そうではなく、あくまでアウトサイダー的でありながら、他者や愛や刺激などを必要としない、孤高の生き方です。
こちらについては、下記ページで述べていきます。
人はだれでも、「幸せ」を求め、「幸せになる権利」は、あたえられています。
しかしそれでも、幼少期に「愛」を教えられないがゆえに、「愛」を得られない人もいます。
そうした人たちは一般に、以下3つの生き方を選ぶ傾向にあります。
1.酒、ギャンブル、性交渉などの感覚的快楽を、ひたすら追い求める。
2.幸せの代わりに、過剰なまでの富や名声を得ようとする
3.自分の自我を殺し、ただ即物的に生きていく
ただし、これらの生き方とはまた違う、もっと生産的な「幸せの代替としての生き方」も、存在します。
それについては、下記サイトを参考にしてください。
自分だけの幸せを追求する道ーそれは突き抜けた歴史的人物を目指すこと
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『2025年から、若者の生活、労働はどう変わる? 歴史法則からの回答』 Kindle版
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